日本は昔も今も、世界一の読書人大国である

日本は昔も今も、世界一の読書人大国である

明治維新からほんのわずかの間に、欧州列強
 に比肩する国家となりえたのも、第二次大戦
 に奇跡の復興をとげたのも、最大の原因は国
 民のほとんどが、十分に読み書きできるとい
 う、いわゆる民度の高さにあろうと私は思う】


浅田次郎著『ま、いっか。』(106)

第三章 ことばについて(13)
◇読書人◇(その3)

日本は昔も今も、世界一の読書人大国である

《「 ◆ハッとするピクチャー(Source:REUTERS◇) ◇Royal baby boy (Crowds of people try to look at a notice formally announcing the birth of a son to Prince William and Catherine, Duchess of Cambridge, placed in the forecourt of Buckingham Palace, in central London, July 22, 2013. REUTERS/Neil Hall) 科挙によって選抜され、なおかつ生涯を勉学 に励まねばならぬ中国の読書人の、総合的教 養の高さといったらとうてい日本人知識層の 及ぶところではなかった。 つまり日本の教育システムは、元来が広汎で 公平な社会主義的なそれであり、中国は少数 精鋭の飛び抜けた叡智が社会を牽引していく という本質を、伝統的に持っているのである。 このごろ取材のために中国に渡る機会がしば しばあり、また日本ペンクラブの交流事業な どで、当地の文学者と対話をすることも多い。 その都度、学者や作家のみなさんの教育度の 高さには舌を巻く。 科挙は百年前に廃止されたはずだが、中国の 知識人というのは今日もまお、「読書人」す なわち「士太夫」の教養と威風を感じさせる ものである。 さて、冒頭の一行に立ち返って、「読書人」 を「読み書きのできる人」と定義する。 日本は昔も今も、世界一の読書人大国である。 明治維新からほんのわずかの間に欧州列強に 比肩する国家となりえたのも、第二次大戦後 に奇跡の復興をとげたのも、最大の原因は国 民のほとんどが十分に読み書きできるという、 いわゆる民度の高さにあろうと私は思う。 一八六八年から一八八五年までの十七年の間、 国民が遵守すべき旨が「太政官布告」という 法令により公布されたことは、以前にも書い た。 全国民が整斎としてこれに順(したが)うこ とができたのは、その「太政官布告」なる文 言を、誰もがきちんと読み取ることができた からであろう。 」》 ■《国民のほとんどが十分に読み書きできる という、いわゆる民度の高さにあろうと私は 思う》 明治維新明治維新たりえたのは、ここにあ ると思います。 明治4年(1871)12月、誕生間もない明治 政府は、新しい国家の設計図を求め、不平等 条約改正の下交渉も兼ねて、史上空前の大使 節団を米欧に派遣しました。 右大臣岩倉具視(47)を特命全権大使に、木 戸孝允(39)、大久保利通(42)、伊藤博文 (31)、山口尚芳(33)を副使とする一行は、 各省の俊才も加えて総勢50名ばかり、これ に、津田梅(8)、牧野伸顕(11)、団琢磨(13)、 中江兆民(25)など同行した50数名の留学生 を加えると、出発時点では100名を越える 大集団でした。 米欧12ヶ国を632日かけて視察し世界を 一周したこの使節団は、結果として、まだ混 沌としていた明治初期の日本がいかにして近 代化を進め、「明治という国家」をつくって いくかという歴史的課題に、極めて大きな影 響を与えました。 それはまさに日本近代化の原点となる視察団 であり、日本の歴史上でも遣唐使に比すべき 大きな意味をもつ使節だったと思います。 岩倉使節団には、女子教育に関心を持ってい た黒田清隆が企画した女子留学生に応募した 7歳から15歳の5人の女の子が随行してい ました。 その中の一人が最年少7歳の津田梅子さんで した。このような年少の子をこの時代に留学 させるのは大変だったでしょうが、梅子さん は立派に留学期間を終え、1882年11月に 18歳で帰国します。 初めてアメリカへ来た未開の日本人は、儒教、 漢学や仏教の素養があって、きちっとした教 養がありました。それは、アメリカ人には驚 きだったようです。 アメリカの西洋文明の進歩には感心はしてい ましたが、日本人は物の本質を見抜ける素養 を持っていて、それを理解できる基盤があり ました。 それが、その後、西洋に知識を吸収して発展 できたのでした。物、機械を見せられても、 原理を即座に理解する日本人には、欧米人は 認識を改めたようです。 英語はわからなくても、漢文から、かなりの 素養、教養を備えていました。 寺子屋が全国に広がっていた日本は、明治維 新の時点で、すでに識字率はヨーロッパに負 けていませんでした。 岩倉使節団一行だけが、とくに優秀だったわ けではなく、あとにはあまたの傑物が控えて いました。 ☆岩倉使節団による西洋文明調査旅行   (明治4年〜6年) ☆堂々たる日本人―知られざる岩倉使節団 (祥伝社黄金文庫) 堂々たる日本人―知られざる岩倉使節団 (祥伝社黄金文庫) 〈目次 〉 プロローグ なぜ、いま岩倉使節団なのか 第1章 史上空前の大使節団―誰が何のために、    この壮挙を企てたのか 第2章 世界一周の文明視察、六三二日―彼らは    どこを歩き、何を見たか 第3章 「この国のかたち」を探り求めて―彼らは、    何をどう観察し、どう考えたか 第4章 ああ、堂々たる日本人―彼らは外国人の目に    どのように映ったか 第5章 使節団の留守中に何が起こっていたのか    ―若手官僚の大活躍と、征韓論の沸騰 第6章 明治日本の針路、ここに定まれり―使節団は   「明治という国家」に、何をもたらしたか 第7章 何が彼らを颯爽とさせたのか―いままた    問われるべき「リーダーの条件」 エピローグ 岩倉使節団から学ぶべきもの ☆明治の女子留学生―最初に海を渡った五人の少女 (平凡社新書) 明治の女子留学生―最初に海を渡った五人の少女 (平凡社新書) ◇明治四年、日本最初の女子留学生として渡米した  五人の少女たちがいた。六歳の津田梅子をはじめ、  山川捨松、永井繁子らが体験した十年余のアメリ  カ生活とはどのようなものだったのか。そして、  日本語も忘れて帰国した後、近代化の荒波の中で、  彼女たちはどう生き抜いたのか。初の帰国子女と  しての波瀾万丈の生涯と、女性として果たした偉  業を明らかにする。 〈目次〉 ・アメリカの熱狂的な歓迎 ・異国の生活をはじめた五人の少女 ・異国に娘を留学させた親たち ・五人の別離とアメリカでの新しい生活 ・女子留学生派遣後の日本の家族 ・帰国女子留学生の困惑と苦悩 ・捨松の結婚と梅子の孤愁 ・鹿鳴館に集う女性たち ・自己の信念と孤高に生きる津田梅子 ・わが道を歩む女子留学生たち ・津田梅子の夢を実現した私塾の創立 ・帰国三十年後の日々の移ろい (つづく) (1463dys-912ent) ☆浅田次郎著『ま、いっか。』(集英社文庫) ま、いっか。 (集英社文庫) ・文庫:272ページ ・出版社:集英社 (2012/11/15) ・さあ、身近の「ま、いっか」について、もう一度考え直して みようか、と。花と読書を愛した青春時代の思い出。巷に氾濫 する美人たちへの忠告。旅と買い物の、とっておきの楽しみ方。 老化について、女の誤解と男の本音。豊富な話題をもとに粋な オヤジ目線で語られるのは、江戸っ子らしいキレの良さと滋味 たっぷりの現代考察。著者の生き方の美学がきらりと光る、軽 妙洒脱なエッセイ集。 自分のために笑え。人のために笑え。いつも背筋を伸ばし、鉄 の心を忘れるな。粋に、一途に、ゆうるりと。浅田次郎が贈る、 軽妙洒脱な生き方指南。 ◎浅田次郎。1951年、東京都出身。自衛隊に入隊、除隊後はア パレル業界など様々な職につきながら投稿生活を続け、1991年、 『とられてたまるか!』で、デビュー。悪漢小説作品を経て、 1995年『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞、1997年『鉄 道員』で直木賞、2000年『壬生義士伝』で柴田錬三郎賞、2006 年『お腹召しませ』で中央公論文芸賞司馬遼太郎賞、2008年 『中原の虹』で吉川英治文学賞を、それぞれ受賞。時代小説の 他に『蒼穹の昴』、『中原の虹』などの清朝末期の歴史小説も 含め、映画化、テレビ化された作品も多い。 ・浅田次郎

浅田次郎著『ま、いっか。』(106)

◆◇◆立ち読み◆◇◆

鈴木智彦『ヤクザと原発 福島第一潜入記』文藝春秋刊(264)

・単行本: 256ページ ・出版社:文藝春秋 (2011/12/15) ・原発は儲かる。どでかいシノギだな。電力会社と交渉して、 ゼネコンと話付けて、地元の土建屋に仕事を振る。代紋なしで はとても捌ききれん。原発はタブーの宝庫。裏社会の俺たちに は、打ち出の小槌となるんだよ」。ヤクザが語る衝撃の事実。 日本最大のタブーがいま明かされる! 誰も書けなかった 命 懸けの衝撃ノンフィクション―。 ★ヤクザと原発 福島第一潜入記 ▼△終章「ヤクザと原発」の落とし前(30)△▼
・あり得ない数値・(その1)

専門職が、どうみても私同様の素人に思えたのだ

《「――証言を集めていくと、不可解だった記憶が蘇ってきた。 たとえば放管である。放射能を測定し、作業員に被曝を防ぐ係員 たちは、どうみても私同様の素人に思えたのだ。言葉で表現する のは難しい。 あえて言うなら危機感の欠落した表情でシェルターでも無意味な 改革ばかり繰り返していたとは指摘できる。 7月、汗でグシャグシャになった下着は、シェルターの廊下部分 に置かれたプラスチックケースに脱ぎ捨てる決まりになっていた。 が、8月になって東芝の放管がそのルールを変え、それぞれに割 り当てられた部屋に下着回収ボックスが設置された。 運ぶ際に重い、というのが理由だ。ただでさえぎゅうぎゅう詰め スペースがさらに狭くなる。作業員のことはまったく考慮されて いなかった。 白髪交じりの長髪で、ヒッピーのような風貌の放管――。 ある朝のミーティングの際、彼の2階の喫煙所が完成したことを 報告し、「喫煙所で座り込んで人がいますが、これからはそんな ことのないように」と作業員に向かって指示を飛ばした。 作業を終え、新設された喫煙所に行くと、当人が座りこんでタバ コを吸っていた。そのすぐ横に彼が書いたのだろう、手書きの貼 り紙があり、「座りタバコは禁止」と書いてあった。専門職独特 の緊迫感がまるでない。 ――」》

■「大企業の友人」安倍氏を批判 独紙

毎日新聞】(2013年07月23日 東京朝刊) 2022年までの「脱原発」を目指すドイツでは、南ドイツ新聞 が「安倍氏は大企業や原発ロビーの友人」と位置付け、「若者や 低所得者層は彼にとって大した意味がない」と説明。 東日本大震災の被災地に投じる予算を増やしたものの「住民は恩 恵を感じていない」と分析した。 フランクフルター・アルゲマイネ紙は安倍首相の持論の国家主義 的主張を抑制して勝利した経緯を解説。「まずアベノミクスを成 功させた後、国家主義への道に踏み出す」と分析した。 ▼思い起こせば、ドイツの脱原発は、一昨年の福島原発の事故の あと、あっという間に決まってしまいました。それには、ドイツ には反原発の土壌が十分にあったからです。 ドイツの原発はすでに40年も議論されてきたテーマで、12歳 以上の人間なら、必ず1度は原発の是非について考えたことがあ るといわれ、皆が原発について何らかの意見を持っていました。 福島で原発事故が起こった時、感覚的に、脱原発の機は十分に熟 していたともいえます。だからこそドイツ人は、一般国民だけで なく、国会議員までもが党の政略やロビーの思惑をかなぐり捨て て、嵐のように脱原発に突っ走り、ほとんど全会一致で脱原発を 決めたのです。 ☆福島第1原発残骸 ☆化学防護服 デュポン タイベック ソフトウェアIII型
★☆★福島民報のニュースサイト
◆◇◆立ち読みのはしご◆◇◆

鎌田慧、斉藤光政『ルポ 下北核半島――原発と基地と人々』☆

・単行本(ソフトカバー): 224ページ ・出版社: 岩波書店 (2011/8/31) ・原子力発電所・核燃料再処理工場・ウラン濃縮工場・ MOX燃料加工工場・高レベル放射性廃棄物貯蔵施設・ 使用済核燃料の中間貯蔵施設、さらに核戦争の最前線基 地として機能する米軍三沢基地。『六ヶ所村の記録』か ら20年、原子力と軍事に侵食される本州最北の地を見 つづけてきた二人のジャーナリストによる報告。 使用済み核燃料が大量に集積される、もっとも危険な原 子力施設 ― 六ヶ所再処理工場原子力センターが姿を 現しつつあるそこは、かつて、農民の土地だった。マグ ロ漁でしられる本州最北端の大間町では、危険と隣合わ せの「最新鋭」原発が建設されている。 その建設地のど真ん中で、建設に抗い、自然エネルギー で暮らす母と娘がいる。原子力開発・核燃サイクルとい う国策のもとに押し潰されてきた人々の暮らしと土地、 そして矜持。フクシマ原発災害を出来させた構造と同じ 光景が広がる下北核半島の現況をリポートする。 ★ルポ 下北核半島――原発と基地と人々 ▼△ルポ 下北核半島――原発と基地と人々△▼(34)
・第1章 悲劇の六ヶ所村(29)
事故つづきの再処理工場(その4)

放射能を扱っていても、日常化すれば慢性になる

《「――その日、報告されたのは、 (1)名簿に登録されていない作業員の管理区域への入域、 (2)作業員の警報付きポケット線量計の未着用、 (3)廃棄物の合計が第一低レベル廃棄物貯蔵建屋の貯蔵容量    (一万三五〇〇本)を上まわっていた、にもかかわらず    仮置きを継続していた、などえである。 (1)(2)のい事案は、労働者の被曝対策としては、会社側に とって労働者の被曝問題を「発生させる」ことのない、究極の 「最高」の方策である。 これでは被曝量はチェックされることなく、労働者の健康、生き 死にに関係せず、完全な使い捨てが完成する。 (3)の事案は、廃棄物をビニール袋にいれて、メッシュパレッ トなどに突っ込んで、仮置きしていたものである。放射能を扱っ ていても、日常化すれば慢性になる、という怠慢のあらわれであ る。火災が発生したら大惨事になっていたはずだ。 ――」》 ★核エネルギー言説の戦後史1945-1960: 「被爆の記憶」と「原子力の夢」 核エネルギー言説の戦後史1945-1960: 「被爆の記憶」と「原子力の夢」

◎◎◎万能川柳20周年記念ベスト版◎◎◎

仲畑貴志・編集  毎日新聞社刊 (2011/4/14) 毎日新聞の「仲畑流万能川柳」に寄せられた作品  の中から、秀逸句を厳選したとっておきの1260句。  20周年記念特別企画として糸井重里氏、南伸坊氏  ら爆笑鼎談も収録。泣いて笑って20年。5年半、  264万句から超厳選。日本のつぶやき傑作集。 ★万能川柳20周年記念ベスト版
・原始人生きてた時は現代人      神奈川 トロン
クールビズ笑わせんなと作業服    米子  浮き浮き
・その道のおたくテレビじゃアナリスト 静岡  上沼みなみ

☆★☆≫ 詩歌逍遙 ≪☆★☆

・幕間・
         木下杢太郎       雪が降る。ちらちらと。 幕間(まくあい)の運動場。 かはいお酌の 花簪(はなかんざし)がちらちらと。 「あれまた今夜は積るのね。」 (食後の唄) ※木下杢太郎 (1885年8月1日 - 1945年10月15日) 医者・劇作家・詩人。本名太田正雄。静岡県生れ。 一高・東大出身。「明星」および「スバル」によ って耽美風の詩作を発表。鴎外の影響受けて反自 然的傾向を示す。また戯曲「和泉屋染物店」など の戯曲を生んだ。このほか南蛮文学の研究科とし て多才ぶりを発揮した。 ※Wikipedia:木下杢太郎   

◇◆◇『西方の人』◇◆◇〈11〉0718

西方の人 イエス・キリストのこと。「西方」という言葉は、 地理的・文化的な「西洋」に対し、思想的・宗教的な意味をこめ て使われている。「西方」は〈さいほう〉〈せいほう〉の二つの 読みが現在行われている。

◇◆◇『西方の人』◇◆◇〈13〉

西方の人 イエス・キリストのこと。「西方」という言葉は、 地理的・文化的な「西洋」に対し、思想的・宗教的な意味をこめ て使われている。「西方」は〈さいほう〉〈せいほう〉の二つの 読みが現在行われている。
・13 最初の弟子たち・
バプテズマのヨハネロマン主義を理解出来ないクリストだつた クリストは僅かに十二歳の時に彼の天才を示してゐる。が、洗礼 を受けた後も誰も弟子になるものはなかつた。 村から村を歩いてゐた彼は定めし寂しさを感じたであらう。けれ どもとうとう四人の弟子たちは――しかも四人の漁師たちは彼の 左右に従ふことになつた。 彼等に対するクリストの愛は彼の一生を貫いてゐる。彼は彼等に 囲まれながら、見る見る鋭い舌に富んだ古代のジヤアナリストに なつて行つた。

■◇■《シリコンバレー金言集》■◇■

梅田望夫著『ウェブ時代5つの定理』から
・文庫: 302ページ ・出版社: 文藝春秋 (2010/2/10) ウェブ時代5つの定理 (文春文庫)インテルアンディ・グローブはこう言った。 「パラノイアだけが生き残る」。グーグルのマ リッサ・メイヤーはこう言う。「政治的になる な、データを使え」―。94年にシリコンバレー に居を定めて以来、ウェブビジネスの最先端に かかわってきた著者が読み解くシリコンバレー の言葉の数々を紹介。ここで取り上げられた言 葉は、皆、英語です。日本語訳は上杉隼人氏。 ※Wikipedia:梅田望夫
◆第3定理 技術者の眼

《技術者独特の眼》

朝起きてから夜遅くまで、テクノロジーのことで頭がいっぱいだ。 これからは先端的テクノロジーがすべてだ。
―― ジェフ・ベソス
What gets us up in the morning and keeps us here late at night is technology. From where we sit, advanced technology is everything.
―― Jeff Bezos
Wikipedia:ジェフ・ベソス (34)

◎◆◎アートのたのしみ《サー・トーマス・ローレンス》◎◆◎

Pope Pius VII 1819
〈1819年 Royal Collection, Windsor Castle, London, UK〉
☆サー・トーマス・ローレンス
(Sir Thomas Lawrence) 〈1769年4月13日 - 1830年1月7日〉 イギリスの画家。ブリストルで生まれ。父は宿屋を営む。6歳 のころから、客の好きな物を描いてみせ、絵かきの片鱗を見せ ていました。父が事業の失敗したときには、トーマスの絵の才 能が家計を支えました。 絵で身を立てる決意をしたトーマスは、1787年にロンドンへ出 て、ジョシュア・レノルズ創設のロイヤル・アカデミーの生徒 となり、彼の絵はたちまち評判を得て、1791年にはアカデミー 会員となります。ほどなく、ディレッタンティ協会の画家に任 命され、国王ジョージ3世のお抱え画家の地位を獲得します。 1820年からロイヤル・アカデミーの会長職に選ばれた。逝去す るまで会長職を務めました。なお、彼は生涯独身を通しました。
☆Sir Thomas Lawrence『自画像』(1788年)
   〈デンヴァー美術館蔵〉 ◆Sir Thomas Lawrence 【アップロード日: 2009/12/09】

◇◆◇マイ視聴コーナー◇◆◇

☆Yesterday - Perry Como (アップロード日: 2009/03/23) 【Recorded February 28th, 1966】 ☆☆ペリー・コモ ・ペリー・コモ(Perry Como) (1912年5月18日 - 2001年5月12日) ペンシルベニア州キャノンズバーグでイタリア系 アメリカ人の家庭にPierino Comoとして生まれた。 理髪店の見習いをしていた頃に町の歌声コンクー ルで優勝したことがきっかけで、1936年に歌手と してデビューした。当時は「歌う床屋さん」と呼 ばれて親しまれた。 1945年の「時の終わりまで」が初めてのミリオン ・セラー。このほか「パパはマンボがお好き」 「イッツ・インポッシブル」「アンド・アイ・ ラブ・ユー・ソー」などのスタンダード・ヒット 曲を持つ。全米ナンバー・ワンとなった歌は14曲。 ★Wikipedia:ペリー・コモ

◎歌集 『美しく愛(かな)しき日本』 岡野弘彦◎より

親ゆずり 祖父(おほぢ)ゆずりの政治家(まつりごとびと) 世に傲(おご)り 国をほろばす 民を亡(ほろ)ぼす 歌集 美しく愛しき日本

◆◇◆日本国よ、沖縄に謝れ! 日本国よ、福島を返せ!◆◇◆