蛍を知らないのに「蛍光灯」の下で成長したのは妙な話

蛍を知らないのに「蛍光灯」の下で成長したのは妙な話

【その新しい光がわが家に灯った夜のことは、これも
 また、はっきりと覚えている。六つか七つのころで
 あったろうか、近所の電器屋が蛍光灯なる新しい文
 明をわが家に設置したのである。点灯したとたん、
 拍手喝采である。蛍光灯は、それくらい明るく華や
 かだった。いかに、もこの世の闇を払う一瞬だった】



浅田次郎著『ま、いっか。』(146)

第四章 星と口笛(37)
◇蛍 窓◇(中)

蛍を知らないのに「蛍光灯」の下で成長したのは妙な話

《「 ◆ハッとするピクチャー(Source:REUTERS◇) ◇NY Comic-Con (A man in a Batman costume holds up an infant dressed as Robin at New York's Comic-Con convention October 11, 2013. REUTERS/Mike Segar) ところで、蛍を知らなかったのに、「蛍光灯」 なるものの下で成長したのは、妙な話である。 その新しい光がわが家に灯った夜のことは、 これもまたはっきりと覚えている。六つか七 つのころであったろうか、近所の電器屋が蛍 光灯なる新しい文明をわが家に設置したので ある。 点灯したとたん、拍手喝采である。蛍光灯は それくらい明るく華やかだった。いかにもこ の世の闇を払う一瞬だった。 それにしても、「蛍光灯」はなかなかのネー ミングである。「明光」だの「冷光」だの 「白光」だのとあれこれ考えた末の結論のち がいないが、「蛍光」とはよくぞ名付けたも のだと思う。 あの時代には、本物の蛍の光は遥けき闇に消 え、蛍光灯という文明の輝きその名をとどめ ることとなった。 それでもなおしばらく、小学校、中学、高校 と卒業するたびに、「蛍の光、窓の雪」と唄 い続けていたのも、また妙な話である。 ちなみに名曲「蛍の光」は、スコットランド の民謡詩人が作り、のちに世界中で送別歌と して唄われるようになった。 日本語詩の作者は、一般には「文部省唱歌」 の慣例に順って「不詳」とされているが、実 は、稲垣千頴(ちかい)という歌人であるら しい。 「螢の光、窓の雪」は、苦労して学問を積む ことのたとえである。 普の車胤(しゃいん)は家が貧しくて油を買 うことができなかったので、夏には薄い布袋 にたくさんの蛍を入れ、その光で勉強をした。 また、孫康(そんこう)という人は、冬にな ると窓辺に積り積もった雪あかりで書物を読 んだ。 出典は前者が『晋書』(しんじょ)、後者が 『蒙求』(もうぎゅう)で、もともとべつの 故事だが、のちにこの美談がワンセットにな って「螢雪」のたとえとなり、「螢の光、窓 の雪」という歌詞に引用されたのである。 名曲にふさわしい歌詞をつけたこの作者は、 それこそ螢雪の功をなした人であろう。 」》 ■おおくのばあい、蛍の光を唄うとき、たい たいは二番までで、三番、四番はほとんどの 人が知らないと思います。 ここで四番に注目しますと、“千島の奥も  沖繩も 八洲の内の 守りなり”と明治十四 年に小学唱歌が出来た時に、もうすでに千島 も沖縄も、八州のうちと、表記していること です。 ところが、1949年(昭和24年)教科書検定制 度最初の小学5年生の音楽教科書において、 「蛍の光」の3番・4番の歌詞は割愛されま した。なにか、政治的に臭います。 さて、稲垣千穎は、国学者、教育者、歌人唱歌作詞者、教科書編集者。東京師範学校教 諭として和文教育を行い、多数の和文教科書 を編纂しました。そして音楽取調掛として、 『蛍の光』・『蝶々』など多数の唱歌を作詞 しました。 しかし、今日出版されている楽譜・音楽書に おいても、「蛍の光」を作詞者不詳・文部省 唱歌とするものが多いのは、ミステリーです。 1962年(昭和37年)各社の音楽教科書がいっ せいに、作詞者として稲垣千穎の名を表示し たことがあるのですが――。 浅田次郎さんも、本文で、奥歯に物が挟まっ たように、《日本語詩の作者は、一般には 「文部省唱歌」の慣例に順って「不詳」とさ れているが、実は、稲垣千頴(ちかい)とい う歌人であるらしい。》と記しています。 何があるんでしょうね。スッキリしません。 ちなみに、稲垣千穎は、陸奥国棚倉(現福島 県東白川郡棚倉町)出身。幼少期から学問に 頭角をあらわし日光の寺院へ留学後、川越藩 藩校長善館の教員に。 京都遊学を経て東京に移り、1869年(明治2年) 23歳で平田篤胤死後の国学塾「気吹舎(い ぶきのや)」(主宰 平田銕胤)に入塾。 そして、塾頭に就任しますが、塾則で禁じら れていた遊郭登楼が発覚。塾生たちから意見 書が提出され退塾処分を受けています。 1874年(明治7年)10月東京師範学校雇とな り、1881年明治14年)7月助教諭、1883年 (明治16年)7月21日教諭(判任)に昇進。 この間、『本朝文範』(共著)『和文読本』 などの教科書を編纂、ベストセラーに。 一方、1880年明治13年)6月7日、東京師 範学校校長で音楽取調掛長を兼務していた伊 沢修二の要請により音楽取調掛に就任(兼務)。 日本最初の音楽教科書『小学唱歌集 初編』 の作詞に携わりました。 いずれにしましても、並の人ではありません。 〈螢の光〉 1. 螢の光 窓の雪 書読む月日 重ねつゝ 何時しか年も 杉の戸を 開けてぞ今朝は 別れ行く 2. 止まるも行くも 限りとて 互いに思ふ 千萬の 心の端を 一言に 幸くと許り 歌ふなり 3. 筑紫の極み 陸奥 海山遠く 隔つとも 其の眞心は 隔て無く 壱つに尽くせ 國の為 4. 千島の奥も 沖繩も 八洲の内の 守りなり 至らむ國に 勲しく 努めよ我が背 恙無く ☆「蛍の光」と稲垣千頴―国民的唱歌と作詞者の数奇な運命― 「蛍の光」と稲垣千頴―国民的唱歌と作詞者の数奇な運命― ・卒業式で歌われる「蛍の光。あまりにも有名な歌 ですが、作詞者が誰か知っていますか? 福島県棚倉 町生まれの「稲垣千頴」です。なぜ、彼の名は歴史 から忘れ去られたのか―。名歌誕生の背景に隠され たエピソードと、謎多き人物にまつわる数奇な運命 を浮き彫りにします。 ・著者 中西光雄(なかにし みつお) 1960年岡山県倉敷市生 まれ。国学院大学大学院文学研究科博士後期課程中 途退学。現在、学校法人河合塾専任講師。専攻は日 本文学・日本政治思想史。 ☆蛍の光  全4番 スコットランド民謡 作詞 稲垣千頴 (アップロード日: 2010/12/31) ☆Andre Rieu - Auld lang syne 2006 (アップロード日: 2007/12/10) 【 Andre Rieu - Auld lang syne 2006 "Auld Lang Syne" (old long since) is a is a Scottish poem written by Robert Burns (1759-1796) in 1788, although a similar poem by Robert Ayton (1570-1638), as well as older folk songs, use the same phrase, and may well have inspired Burns. In any case, it is one of the better-known songs in English-speaking countries, and it is often sung at the stroke of midnight on New Year's Day. Like many other frequently sung songs, the melody is better remembered than the words, which are often sung incorrectly, and seldom in full. "Auld Lang Syne" is usually sung each year at midnight on New Year's Day (Hogmanay in Scotland) in the United Kingdom, the Republic of Ireland, the United States, Australia, New Zealand, South Africa, Hong Kong, Anglo areas of India, and Canada, and signifies the start of a new year. In the United Kingdom, it is played at the close of the annual Congress (conference) of the Trades Union Congress.  】 (つづく) (1547dys-952ent) 浅田次郎著『ま、いっか。』(集英社文庫) ま、いっか。 (集英社文庫) ・文庫:272ページ ・出版:集英社 (2012/11/15) ・さあ、身近の「ま、いっか」について、もう一度考え直して みようか、と。花と読書を愛した青春時代の思い出。巷に氾濫 する美人たちへの忠告。旅と買い物の、とっておきの楽しみ方。 老化について、女の誤解と男の本音。豊富な話題をもとに粋な オヤジ目線で語られるのは、江戸っ子らしいキレの良さと滋味 たっぷりの現代考察。著者の生き方の美学がきらりと光る、軽 妙洒脱なエッセイ集。 自分のために笑え。人のために笑え。いつも背筋を伸ばし、鉄 の心を忘れるな。粋に、一途に、ゆうるりと。浅田次郎が贈る、 軽妙洒脱な生き方指南。 ◎浅田次郎。1951年、東京都出身。自衛隊に入隊、除隊後はア パレル業界など様々な職につきながら投稿生活を続け、1991年、 『とられてたまるか!』で、デビュー。悪漢小説作品を経て、 1995年『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞、1997年『鉄 道員』で直木賞、2000年『壬生義士伝』で柴田錬三郎賞、2006 年『お腹召しませ』で中央公論文芸賞司馬遼太郎賞、2008年 『中原の虹』で吉川英治文学賞を、それぞれ受賞。時代小説の 他に『蒼穹の昴』、『中原の虹』などの清朝末期の歴史小説も 含め、映画化、テレビ化された作品も多い。 ・浅田次郎

浅田次郎著『ま、いっか。』(146)

―――――◎◆◎立ち読み◎◆◎―――――

★『原発ヒロシマ――「原子力平和利用」の真相』(30)

(岩波ブックレット) ・単行本: 64ページ ・出版社: 岩波書店 (2011/10/8) ・著者: 田中利幸、ピーター・カズニック)(Peter Kuznick) ・原爆の惨劇を経験した日本は、なぜ戦後、核の危険性に目 をつむり、原発政策に邁進していったのか。その背景には、 1950年代、アメリカが自らの核戦略を推進するために打ち 出した「原子力平和利用」政策があり、被爆地・広島もそ の戦略の一環として組み込まれたのだった。日本の原発政 策の「原点」を問う。  ☆原発とヒロシマ――「原子力平和利用」の真相 (岩波ブックレット)

▼△第2章 「原子力平和利用」とヒロシマ △▼(2)

―――宣伝工作のターゲットにされた被爆者たち

被爆者による原発推進〈2〉

森一久JAIF副会長「核燃料加工施設での事故は想定外だった」
《「――この事故に言及して、翌年二月、当時、日本原子力産業 会議(二〇〇六年に「日本原子力産業協会」に改名)副会長であ った森一久は、「安全神話」などという言葉を信じて仕事をして きた原子力関係者はおらず、常に万全の注意を払ってきたはずで あると述べている。 したがって「核燃料加工施設での事故は想定外だった」と、今回 の福島第一原発事故に対する東京電力原子力安全委員会のスタ ッフが繰り返している言葉と全く同じ表現を使っている。 原子力関係者の目が行き届いていなかったので、この事故の後、 管理体制を整備して安全性を厳しくチェックできるようにしたと も述べている。 その一方で、放射能の影響については、付近住民の被曝は低線量 で健康にはとんど影響なかったにもかかわらず、説明や発表が遅 れ、不必要な血液検査を行ったりして不安をかきたてるなど対応 策に問題があったと悔やんでいる。 ――」》

焼却灰からセシウム分離 県とIAEA 来年中にも実証実験

福島民報】(2013/10/14 08:56 ) 県と国際原子力機構(IAEA)は平成26年中にも、ごみ処理 施設などで出る焼却灰から放射性セシウムを分離する実証実験に 入る。県内では現在、約13万トンに上る焼却灰の受け入れ先が 決まらず、今後も増える見通し。自治体などは保管場所確保に苦 慮しており、昨年締結した両者の国際協力プロジェクトの一環と して取り組む。セシウムを焼却ガスに取り込み、灰に残さない焼 却法を確立する。実現すれば、埋め立てや工業用資材としての再 利用が進むと期待される。   IAEA放射性物質の研究を積み重ねており、県内のごみ処理 施設で実施することは十分、可能とみている。県は今月末、担当 者をウィーンのIAEA本部に派遣し具体的な協議に入る予定だ。 26年中にも県内のごみ処理施設で実証実験に入り、成果が出れ ば本格実施に移行する。この焼却法では、全体量の7割が焼却灰 に、3割がセシウムを含む燃え残りとなる。 ◆【全文記事へ続く】

◆◇◆立ち読みのはしご◆◇◆

鎌田慧、斉藤光政『ルポ 下北核半島――原発と基地と人々』☆

・単行本(ソフトカバー): 224ページ ・出版社: 岩波書店 (2011/8/31) ・原子力発電所・核燃料再処理工場・ウラン濃縮工場・ MOX燃料加工工場・高レベル放射性廃棄物貯蔵施設・ 使用済核燃料の中間貯蔵施設、さらに核戦争の最前線基 地として機能する米軍三沢基地。『六ヶ所村の記録』か ら20年、原子力と軍事に侵食される本州最北の地を見 つづけてきた二人のジャーナリストによる報告。 使用済み核燃料が大量に集積される、もっとも危険な原 子力施設 ― 六ヶ所再処理工場原子力センターが姿を 現しつつあるそこは、かつて、農民の土地だった。マグ ロ漁でしられる本州最北端の大間町では、危険と隣合わ せの「最新鋭」原発が建設されている。 その建設地のど真ん中で、建設に抗い、自然エネルギー で暮らす母と娘がいる。原子力開発・核燃サイクルとい う国策のもとに押し潰されてきた人々の暮らしと土地、 そして矜持。フクシマ原発災害を出来させた構造と同じ 光景が広がる下北核半島の現況をリポートする。 ★ルポ 下北核半島――原発と基地と人々 ▼△ルポ 下北核半島――原発と基地と人々△▼(74)
・第2章 核最終処分場の不安・東通村(8)
残されていた記念碑(その1)

全戸買収されて離村した「南通部落」は鬱蒼とした杉林に

《「――全戸買収されて離村した「南通部落」は、泊街道を北 上して、両原発の境界線にささかかったあたり、かって鬱蒼と した杉林に囲まれてあった。 ここを通過しながらも、わたしはいつも先を急いでいたので、 馬場勝雄さんのお宅を訪ねることはしていなかった。その先に あらわれる小田野沢部落の入り口に、移転先があったのだが、 二〇〇九年一一月の今でもご健在とは考えていなかった。 移転してからは一回しか伺っていなかった。それでも気にかか っていたのは、彼が個人で建てた「記念碑」が、いまでもその まま遺っているのか、こんどこそそれを確かめてみたいと考え ていた。 南通は東通の南部に位置しているから、その名前になったので あろう。村内の二、三男が、戦後の一九四七年に県の緊急開拓 に応じて入植、雑木を伐り、木の根を抜いて、開墾した土地だ った。 原発が来たときは二〇戸が残っていた。いまはちょうど、東京 電力と東北電力との基地のあいだにはさまっているようである。 ――」》

■米政府閉鎖で嘉手納基地軍属6割休業

沖縄タイムス】(2013年10月15日 10時08分) 米政府機関の一部閉鎖に伴い、空軍嘉手納基地が軍属の6割に 当たる250人を休業させる「一時帰休」としていたことが分 かった。海兵隊の各基地でも、人数は不明だが同様に帰休があ った。公用車の使用抑制、個人や商用の貨物輸送停止など、幅 広い分野に影響が出ている。一方、嘉手納と普天間飛行場にい る軍属の管制官は帰休させず、運用も通常通りだという。                         (阿部岳) 米2014会計年度が始まったのは米東部時間の1日午前0時 で、日本時間では同日午後1時だった。嘉手納の報道部は「議 会で予算が成立しなかったのを見届け、軍属が一斉に帰宅した」 と説明した。 その後、国防総省が帰休の基準を緩和し、嘉手納では7日から 大半が復職した。海兵隊報道部は「人数は把握できない」とし たが、各基地の帰休者が職場に戻りつつあるという。 7月以降、嘉手納や普天間では軍属の管制官が13年度国防予 算の強制削減のあおりで帰休させられ、航空運用が一時制限さ れたが、今回は対象から外された。 給与を支給する法律が成立した現役軍人や、日本政府が給与を 支払う日本人の基地従業員は帰休の対象にならなかった。 憲兵や消防、海軍病院のほか、「任務に不可欠」と分類された 業務は通常通り続けている。一方で、米軍のテレビ放送は一時 8チャンネルから2チャンネルに削減され、軍人の身の回りの 品や商用物資の輸送、資源ごみ収集も止まった。 米軍人からは「奨学金が受けられず、基地内大学に通うのを中 断した」「軍属の分も仕事をしている」などの声が上がる。 在日米軍報道部の担当者は、「重要な軍事活動は続けられる」 と強調しながらも、「軍属の多くは今年2度も一時帰休させら れ、大きなストレスと困難を強いられた。現役軍人も、即応態 勢や生活サービスの低下で、不必要な負担に直面している」と 嘆いた。

◎◎◎万能川柳20周年記念ベスト版◎◎◎

仲畑貴志・編集  毎日新聞社刊 (2011/4/14) 毎日新聞の「仲畑流万能川柳」に寄せられた作品  の中から、秀逸句を厳選したとっておきの1260句。  20周年記念特別企画として糸井重里氏、南伸坊氏  ら爆笑鼎談も収録。泣いて笑って20年。5年半、  264万句から超厳選。日本のつぶやき傑作集。 ★万能川柳20周年記念ベスト版
・税金で食ってるやつが税を上げ   善通寺 池の前
・偉人伝 最後にぼけた話ない    久喜 マサタカ
・売り出しと落ち目の時のヘアヌード 城陽 守朴
  

☆★☆≫詩歌 逍遙(俳句) ≪☆★☆

枇杷の花暁けそむるより憩らはず

・葉牡丹やわが想ふ顔みな笑まふ

・寒卵薔薇色させる朝ありぬ

石田波郷(いしだ はきょう)  (1913年3月18日 - 1969年11月21日) 本名哲夫(てつお)。松山市に生る。水原秋桜子の 「馬酔木」により、流麗な感覚を駆使した斬新な作 風で、新興俳句の重要な存在となった。戦後病篤の 時期をへてさらに写実に深さを加えている。当時、 俳壇の担い手の一人。「石田波郷句集」「胸形変」 惜命」など。 ※Wikipedia:石田波郷 

◇◆◇『続西方の人』◇◆◇〈16〉

西方の人 イエス・キリストのこと。「西方」という言葉は、 地理的・文化的な「西洋」に対し、思想的・宗教的な意味をこめ て使われている。「西方」は〈さいほう〉〈せいほう〉の二つの 読みが現在行われている。
・14 孤身・
     「イエス……家に入りて人に知られざらん事を願ひしが隠れ得ざ りき。」――かう云ふマコの言葉は又他の伝記作者の言葉である。 クリストは度たび隠れようとした。が、彼のジヤアナリズムや奇 蹟は彼に人々を集まらせてゐた。彼のイエルサレムへ赴(おもむ) いたのもペテロの彼を「メシア」と呼んだ影響も全然ないことは ない。 しかしクリストは十二の弟子たちよりも或は橄欖(かんらん)の 林だの岩の山などを愛したであらう。しかもジヤアナリズムや奇 蹟を行つたのは彼の性格の力である。 彼はここでも我々のやうに矛盾せずにはゐられなかつた。けれど もジヤアナリストとなつた後、彼の孤身を愛したのは疑ひのない 事実である。 トルストイは彼の死ぬ時に「世界中に苦しんでゐる人々は沢山あ る。それをなぜわたしばかり大騒ぎをするのか?」と言つた。こ の名声の高まると共に自ら安じない心もちは我々にも決してない 訣(わけ)ではない。 クリストは名高いジヤアナリストになつた。しかし時々大工の子 だつた昔を懐がつてゐたかも知れない。ゲエテはかう云ふ心もち をフアウスト自身に語らせてゐる。フアウストの第二部の第一幕 は実にこの吐息の作つたものと言つても善よい。が、フアウスト は幸ひにも艸花(くさばな)の咲いた山の上に佇(たたず)んで ゐた。……

■◇■《シリコンバレー金言集》■◇■

梅田望夫著『ウェブ時代5つの定理』から
・文庫: 302ページ ・出版社: 文藝春秋 (2010/2/10) ウェブ時代5つの定理 (文春文庫)インテルアンディ・グローブはこう言った。 「パラノイアだけが生き残る」。グーグルのマ リッサ・メイヤーはこう言う。「政治的になる な、データを使え」―。94年にシリコンバレー に居を定めて以来、ウェブビジネスの最先端に かかわってきた著者が読み解くシリコンバレー の言葉の数々を紹介。ここで取り上げられた言 葉は、皆、英語です。日本語訳は上杉隼人氏。 ※Wikipedia:梅田望夫
◆第4定理 グーグリネス

《世界中からグーグルに人材が集まるわけ》

ここは私が博士課程を終了して働きたいと思う ような場所だろうか。イエス。なぜか。それは グーグルでは、素晴らしいコンピュータ・サイ エンストたちに、「大きな技術的問題」と取り 組ませるからだ。それによって、彼らが切望す る知的刺激と知的挑戦が満たされる。
―― サーゲイ・ブリン
Is this place I would want to work if I were graduating from a PhD program now? Yes. Why? The key reazon is that Google lets brilliant computer scientists wprk on "great technical problems" that provide the intecllectual stimilation and challenge they crave.
―― Sergey Brin
Wikipedia:セルゲイ・ブリン(=サーゲイ) (74)

◎◆◎アートのたのしみ《サー・トーマス・ローレンス》◎◆

Portrait of a Gentleman
〈年不詳 個人蔵〉
☆サー・トーマス・ローレンス
(Sir Thomas Lawrence) 〈1769年4月13日 - 1830年1月7日〉 イギリスの画家。ブリストルで生まれ。父は宿屋を営む。6歳 のころから、客の好きな物を描いてみせ、絵かきの片鱗を見せ ていました。父が事業の失敗したときには、トーマスの絵の才 能が家計を支えました。 絵で身を立てる決意をしたトーマスは、1787年にロンドンへ出 て、ジョシュア・レノルズ創設のロイヤル・アカデミーの生徒 となり、彼の絵はたちまち評判を得て、1791年にはアカデミー 会員となります。ほどなく、ディレッタンティ協会の画家に任 命され、国王ジョージ3世のお抱え画家の地位を獲得します。 1820年からロイヤル・アカデミーの会長職に選ばれた。逝去す るまで会長職を務めました。なお、彼は生涯独身を通しました。
☆Sir Thomas Lawrence『自画像』(1788年)
デンヴァー美術館蔵〉 ◆Sir Thomas Lawrence 【アップロード日: 2009/12/09】

◇◆◇マイ視聴コーナー◇◆◇

elvis presley too much (アップロード日: 2009/08/17) 【live 1956】 ☆☆☆ ・エルヴィス・アーロン・プレスリー (Elvis Aron Presley) (1935年1月8日 - 1977年8月16日) アメリカのロックンロールミュージシャン、映画俳優。 「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人 のシンガー」において第3位。 「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組 のアーティスト」において第3位。 「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」にお  いて第1位。 ロックンロールの王様。「ザ・キング」。モノマネの対 象として、ポップミュージシャンとしてはたぶん指折り。 ★Wikipedia:エルヴィス・プレスリー

◎歌集 『美しく愛(かな)しき日本』 岡野弘彦◎より

親ゆずり 祖父(おほぢ)ゆずりの政治家(まつりごとびと) 世に傲(おご)り 国をほろばす 民を亡(ほろ)ぼす 歌集 美しく愛しき日本
◆"Abe Shinzo, a Far-Right Denier of History"
安倍晋三 極右の歴史否定論者〉 (by The Asia-Pacific Journal, Vol 11, Issue 1, No. 1, January 14, 2013)

◆◇◆日本国よ、沖縄に謝れ! 日本国よ、福島を返せ!◆◇◆