放蕩の限りを尽くしていた高校生のころであったと思う

放蕩の限りを尽くしていた高校生のころであったと思う

【ふたつめの学校の職員室に電話が入り、母の重篤を知
 った。手術中に緊急の輸血が必要になったので、すぐ
 病院にこいという報せである。母とは縁が薄く、子宮
 癌という大病を患っていたことさえ知らなかった。私
 はどうしようもない子供で、そのときも骨折した左手
 を首から吊っており、片方の目には眼帯をかけていた】


浅田次郎著『ま、いっか。』(119)

第四章 星と口笛(10)
◇雨の記憶◇(上)

放蕩の限りを尽くしていた高校生のころであったと思う

《「 ◆ハッとするピクチャー(Source:REUTERS◇) ◇America's Cup (Oracle Team USA trains for the America's Cup regatta in San Francisco, California August 9, 2013. Oracle announced Thursday that it will forfeit victories in four America's Cup World Series regattas after determining its AC45 catamarans were modified in violation of race rules. REUTERS/Noah Berger) 青臭い文学少年に見られるのがいやで、放蕩 の限りを尽くしていた高校生のころであった と思う。 ふたつめの学校の職員室に電話が入り、母の 重篤を知った。手術中に緊急の輸血が必要に なったので、すぐ病院にこいという報せであ る。母とは縁が薄く、子宮癌という大病を患 っていたことさえ知らなかった。 私はどうしようもない子供で、そのときも骨 折した左手を首から吊っており、片方の目に は眼帯をかけていた。こんななりで瀕死の母 に会うのは不幸だなと思ったが、まさか知ら ん顔もできまい。学校を出ると雨が降ってい た。傘は持っていなかった。 薄っぺらな学生鞄には、いつも教科書のかわ りに小説が入っていた。何の本であったかは 忘れたが、バスの中で活字の上を目が滑り続 けていたのは妙に覚えている。読書について はすこぶる集中力があったから、おのれの動 揺を訝しく思った。 ずぶ濡れのまま病院に行って、医師の説明を 聞いた。あまりかかわりあいになりたくない と思っていた私は、医師の声などうわの空で、 中庭に立ち騒ぐ若葉の枝ばかりを見つめてい た。陰湿な感じの古い病院だった。 どうしたわけか、輸血はしなかった。のちに なって考えたのだが、面会にこようとしない 不肖の倅を、母かあるいは母の意思を汲んだ 看護師かが、そんな方便を使って呼び寄せた のだろう。 眠り続ける母の手をしばらく握ってから、さ っさと病院を出た。雨足はつのっていたが、 ともかくその場から立ち去りたかった。私に は母の不幸を斟酌する良心がなかった。 胸前で腕を吊った学生服は半袖シャツだった から、たぶん梅雨どきだったのだろう。だが 早い嵐でもきていたものか、国道に出たとき にはひどい土砂降りになっていた。 電話ボックスで雨やどりをした。ギブスが水 を吸って、固まらぬ骨が疼き始めたからだっ た。あるいは誰かに電話をかけようとしたの かもしれぬが、そんなせつない気分を慰めて くる人を、そのころの私は持っていなかった はずである。 独り暮らしの下宿に帰りたくはなく、さりと て病院に戻って母の目覚めを待ちたくもなか った。電話ボックスの中に追いつめられた私 は、文庫本を読み始めた。題名は忘れたが、 甘い恋物語であったような気がする。 ふいに、雨のガラスの向こうに、セーラー服 の女子高学生が立った。電話をかけるのだな と思ってドアを開けると、その少女はおぼつ かぬ微笑を浮かべて、私に傘をさしかけてく れた。 」》 ■人の家庭にはそれぞれいろんな事情がある んですね。 これまで、浅田さんの語ることといえば、お 祖母ちゃんのことばかりでした。たんなるお 祖母ちゃんっ子とばかり思っていました。 きょうの、浅田さんと、お母さんとの再会の 場面は、なんとも辛いです。 家族のことを語るのは、非常に難しいと思い ます。私なんか、あと十年も経たないと言え ないと思っています。 ここで、お盆の季節がら読んだ本の一節をご 紹介したいと思います。
◇苦しみのもとは「過去の反省」と「未来の心配」
私たちを苦しめるの「過去の反省」と「未来の心配」です。「自 分はなぜあんなことをしてしまったのだろう。あれさえなければ 成功したのに」とか、「あのとき、あの人は何とひどいことをし たのだ。一生恨んでやる」などと思うのですが、実は過去の自分 や他人も今の自分、他人ではないのです。今の自分に過去の責任 を問うことはできないのです。 同じように未来の自分、未来の社会の人々は、今の自分、今の社 会の人々と同じではありません。似ているのですが、本質的には 別なので、連続的につながっているように見える未来を心配して も、何も解決しないのです。 また未来は、自分と関係ない人たちが決めたり、争ったりするの で、自分に本来決定権のないことを考えても苦しいのは当然です。 ですから、禅では「今」しかないということをどうしたら悟らせ ることができるかということに心を砕くのです。 本質的には過去の自分と今の自分は異なるのだ、いまの自分には 過去の行為の責任はない、ただ法律的、あるいは社会通念の上か ら責任を問われているだけのだから、その制度内で責任を果たせ ば、それ以上の責任はないのだ、と、理解することは、生きいき と生きてゆく上で非常に大事なことだと思います。 諸行無常の教えはこの根本問題を解決します。 ※引用 ☆責めず、比べず、思い出さず―禅と大脳生理学に学ぶ知恵 責めず、比べず、思い出さず―禅と大脳生理学に学ぶ知恵 (つづく) (1490dys-925ent) ☆浅田次郎著『ま、いっか。』(集英社文庫) ま、いっか。 (集英社文庫) ・文庫:272ページ ・出版社:集英社 (2012/11/15) ・さあ、身近の「ま、いっか」について、もう一度考え直して みようか、と。花と読書を愛した青春時代の思い出。巷に氾濫 する美人たちへの忠告。旅と買い物の、とっておきの楽しみ方。 老化について、女の誤解と男の本音。豊富な話題をもとに粋な オヤジ目線で語られるのは、江戸っ子らしいキレの良さと滋味 たっぷりの現代考察。著者の生き方の美学がきらりと光る、軽 妙洒脱なエッセイ集。 自分のために笑え。人のために笑え。いつも背筋を伸ばし、鉄 の心を忘れるな。粋に、一途に、ゆうるりと。浅田次郎が贈る、 軽妙洒脱な生き方指南。 ◎浅田次郎。1951年、東京都出身。自衛隊に入隊、除隊後はア パレル業界など様々な職につきながら投稿生活を続け、1991年、 『とられてたまるか!』で、デビュー。悪漢小説作品を経て、 1995年『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞、1997年『鉄 道員』で直木賞、2000年『壬生義士伝』で柴田錬三郎賞、2006 年『お腹召しませ』で中央公論文芸賞司馬遼太郎賞、2008年 『中原の虹』で吉川英治文学賞を、それぞれ受賞。時代小説の 他に『蒼穹の昴』、『中原の虹』などの清朝末期の歴史小説も 含め、映画化、テレビ化された作品も多い。 ・浅田次郎

浅田次郎著『ま、いっか。』(119)

―――――◎◆◎立ち読み◎◆◎―――――

★『原発ヒロシマ――「原子力平和利用」の真相』(3)

(岩波ブックレット) ・単行本: 64ページ ・出版社: 岩波書店 (2011/10/8) ・著者: 田中利幸、ピーター・カズニック)(Peter Kuznick) ・原爆の惨劇を経験した日本は、なぜ戦後、核の危険性に目 をつむり、原発政策に邁進していったのか。その背景には、 1950年代、アメリカが自らの核戦略を推進するために打ち 出した「原子力平和利用」政策があり、被爆地・広島もそ の戦略の一環として組み込まれたのだった。日本の原発政 策の「原点」を問う。 ☆原発とヒロシマ――「原子力平和利用」の真相 (岩波ブックレット)

▼△序章 ヒロシマナガサキからフクシマへ△▼(3)

・潜水艦用原子炉「マーク1原型」の開発〈2〉

オッペンハイマーらの手から離れた核技術分野における支配力

《「――当初からリッコーバーは、原子力を海軍用潜水艦ならび に艦船に応用するにとどまらず、大量の電力を発電する原子力発 電所に活用することを考えていた人物であった。 彼のこのアイディアは、第二次世界大戦中に様々な種類の兵器製 造の注文を政府から受けるようになり、海軍と緊密な関係を結ぶ ようになったウェスティング・ハウス社、ゼネラル・エレクトリ ック社、ジェネラル・ダイナミクス社などの会社役員からおおい に歓迎された。 しかしながら、リッコーバーの計画の実現化は、原子力の拡散を 意味するものであり、それは同時に核兵器製造技術の拡散化をも 意味するもの であった。 こうした動きに反対し、核技術とその研究開発を厳しい規制の下 におくべきと考えていたのが、アルバート・アインシュタインロバート・オッペンハイマーであった。 とりわけオッペンハイマーは、「我は死となれり、世界の破壊者 となれり」と晩年に述べたことから明らかなように、原爆開発に 重要な役割を自分が果たしたことに深い責任感と後悔の念を持っ ていたことから、リッコーバーとその部下たち、さらには彼らを 取り巻く軍事産業家たちの動きにひじょうな懸念を抱いていたの である。 ある会合で、机の上におかれたノーチラス潜水艦の小さなモデル を、オッペンハイマーが手でつかみ上げて握りつぶしたというエ ピソードさえ残っている。 しかし米ソ冷戦状態が深まりつつあった一九五三年の段階で、ア メリカの核技術分野における支配力は、すでにアインシュタインオッペンハイマーらの手から離れ、リッコーバーを含む戦後の 新しい科学者グループとその支持者あっちの手に移っていた。 ――」》

鮫川村の焼却施設本格稼動へ

NHK福島放送局】(08月19日 13時48分) 放射性物質を含んだ稲わらなどを焼却し量を減らすため環境省鮫川村に建設した仮設の焼却施設が19日午後から、本格稼働を 始めることになりました。 本格稼働を始めるのは環境省原発事故で汚染された村内の稲わ らや牧草、それに除染作業で出る木の枝や落ち葉などの量を減ら すために鮫川村青生野に建設した仮設の焼却施設です。 19日は午前中、安全性に不安があるとして稼働に反対する人た ちおよそ20人が施設の敷地の外に集まり、プラカードを掲げた りシュプレヒコールをあげたりしていました。 施設について環境省は、先月、10日間にわたって確認のための 稼働を行い、その結果、燃やしたあとの排気ガスから放射性セシ ウムが検出されず、施設内や周辺の放射線量にも変化はなかった としています。 これを受けて鮫川村の監視委員会が本格稼働を了承し環境省は 19日午後から稼働を始めることにしています。 環境省によりますと施設で焼却する稲わらや落ち葉などは当初予 定していたおよそ600トンよりも少なくなる見込みで、稼働の 期間も計画の20か月よりも短縮される予定だということです。 環境省や村では焼却を行う日ごとに、施設内やその周辺の放射線 量などをホームページなどで公表するとしています。

◆◇◆立ち読みのはしご◆◇◆

鎌田慧、斉藤光政『ルポ 下北核半島――原発と基地と人々』☆

・単行本(ソフトカバー): 224ページ ・出版社: 岩波書店 (2011/8/31) ・原子力発電所・核燃料再処理工場・ウラン濃縮工場・ MOX燃料加工工場・高レベル放射性廃棄物貯蔵施設・ 使用済核燃料の中間貯蔵施設、さらに核戦争の最前線基 地として機能する米軍三沢基地。『六ヶ所村の記録』か ら20年、原子力と軍事に侵食される本州最北の地を見 つづけてきた二人のジャーナリストによる報告。 使用済み核燃料が大量に集積される、もっとも危険な原 子力施設 ― 六ヶ所再処理工場原子力センターが姿を 現しつつあるそこは、かつて、農民の土地だった。マグ ロ漁でしられる本州最北端の大間町では、危険と隣合わ せの「最新鋭」原発が建設されている。 その建設地のど真ん中で、建設に抗い、自然エネルギー で暮らす母と娘がいる。原子力開発・核燃サイクルとい う国策のもとに押し潰されてきた人々の暮らしと土地、 そして矜持。フクシマ原発災害を出来させた構造と同じ 光景が広がる下北核半島の現況をリポートする。 ★ルポ 下北核半島――原発と基地と人々 ▼△ルポ 下北核半島――原発と基地と人々△▼(47)
・第1章 悲劇の六ヶ所村(42)
裏切られた土地(その1)

一九七九年一〇月 弥栄平部落の閉村式が行われた

《「――再処理工場の隣のブロック、「弥栄平中央地区」が、 ゼネコン集落である。かって工事現場にでる労働者を収容し ていた飯場が立ち並んでいた。 いまは、簡易建築物に昇格して、軒をつらねている。鹿島、 熊谷、竹中、大成、清水、大林、前田、西松、戸田と、核燃 関連建設業の大前線基地である。 このあたりに、佐々木ミネさんの家と畑があった。弥栄平部 落が閉村式をおこなったのは一九七九年一〇月だったが、彼 女は買収を拒否して、ひとりここで畑を耕していた。その期 間がどのくらいになったのか、わたしには確認できていない のだが、一〇年ちかくは抵抗していたのではないだろうか。 まわりの住宅はすべて解体され、荒れ地になっていた。彼女 はときどき手を休めて鍬を置き、腰を伸ばして、家の前の道 路を通行するクルマを眺めていた。隣の境界線から再処理工 場の予定地である。息子さんが村役場の職員だったから、そ の抵抗は並大抵のももではない。 「きのうもきたよ、電子レンジが」 という。驚いて聞き直すと、それは電事連を当てこすったい いかただった。電事連の担当者がふたりづれでやってくると、 「うちの電子レンジはなんの故障めねえ」といって戸口で帰 すんだそうだ。 ――」》

■平敷屋保存会、鎮魂のエイサー 摩文仁

沖縄タイムス】(2013年8月19日 09時49分) 国立沖縄戦没者墓苑前で、エイサー演舞を  奉納するうるま市平敷屋エイサー保存会の  メンバー=18日午後、糸満市摩文仁糸満うるま市平敷屋エイサー保存会は18日、沖縄戦戦 没者18万余りの遺骨が安置される糸満市摩文仁の国立沖縄 戦没者墓苑で、エイサー演舞を奉納した。 県平和祈念財団が、旧盆前に戦没者の冥福を祈る行事として 始めて、ことしで3回目。21日には、糸満市喜屋武青年会 もエイサー奉納する。 保存会のメンバー約40人は、墓苑と平和の礎前などで一糸 乱れぬパーランクーのバチさばきと素朴な力強さがあるエイ サーの演舞を披露した。 仲尾清治保存会会長は「保存会結成30周年記念に、墓苑で 奉納演舞を希望していた。念願がかなった」と喜んでいた。 財団の大城藤六理事は「エイサーで戦没者を供養する取り組 みを続け平和祈念公園の行事として定着させたい」と話した。 ★低線量汚染地域からの報告―チェルノブイリ 26年後の健康被害 低線量汚染地域からの報告 チェルノブイリ 26年後の健康被害

◎◎◎万能川柳20周年記念ベスト版◎◎◎

仲畑貴志・編集  毎日新聞社刊 (2011/4/14) 毎日新聞の「仲畑流万能川柳」に寄せられた作品  の中から、秀逸句を厳選したとっておきの1260句。  20周年記念特別企画として糸井重里氏、南伸坊氏  ら爆笑鼎談も収録。泣いて笑って20年。5年半、  264万句から超厳選。日本のつぶやき傑作集。 ★万能川柳20周年記念ベスト版
・学歴が人を造らぬことを知る  茅ヶ崎 小室和夫
・切りかたに性格出てる袋とじ  大阪  ぷ〜
・眉までも茶色に染めてなに人か 我孫子 龍野目玉

☆★☆≫ 詩歌逍遙 ≪☆★☆

・夕の星・
土井晩翠         ちぎれちぎれに雲迷ふ 夕の空に星ひとつ 光はいまだ淺けれど 思深しや天の海。 嗚呼カルデアに牧びとの なれを見しより四千年 光はとはに若わこうして 世はかくまでに老いしかな。 またゝく光露帶びて 今はた泣くか人のため つかれ、爭ひ、わづらひに 我世の幸は遠ければ。           (天地有情) ※土井晩翠(どい ばんすい)  (1871年12月5日)- 1952年10月19日) 本名林吉。仙台生まれ。東大卒ののち「帝国文学」 編集委員となり自作詩を発表した。晩年に至るま で詩作と英文学研究に専念。『天地有情』『暁鐘』 の二詩集により漢詩調の叙事詩の新体をなした。 ※Wikipedia:土井晩翠 

◇◆◇『西方の人』◇◆◇〈26〉

西方の人 イエス・キリストのこと。「西方」という言葉は、 地理的・文化的な「西洋」に対し、思想的・宗教的な意味をこめ て使われている。「西方」は〈さいほう〉〈せいほう〉の二つの 読みが現在行われている。
・26 幼な児の如く・
クリストの教へた逆説の一つは「我まことに汝等に告げん。若 (も)し改まりて幼な児の如くならずば天国に入ることを得じ」 である。 この言葉は少しも感傷主義的ではない。クリストはこの言葉の中 に彼自身の誰よりも幼な児に近いことを現してゐる。同時に又聖 霊の子供だつた彼自身の立ち場を明らかにしてゐる。 ゲエテは彼の「タツソオ」の中にやはり聖霊の子供だつた彼自身 の苦しみを歌ひ上げた。「幼な児の如くあること」は幼稚園時代 にかへることである。 クリストの言葉に従へば、誰かの保護を受けなければ、人生に堪 えないものの外は黄金の門に入ることは出来ない。そこには又世 間智に対する彼の軽蔑も忍びこんでゐる。 彼の弟子たちは正直に(幼な児を前にしたクリストの図の我々に 不快を与へるのは後代の偽善的感傷主義の為である。)彼の前に 立つた幼な児に驚かない訣(わけ)には行かなかつたであらう。

■◇■《シリコンバレー金言集》■◇■

梅田望夫著『ウェブ時代5つの定理』から
・文庫: 302ページ ・出版社: 文藝春秋 (2010/2/10) ウェブ時代5つの定理 (文春文庫)インテルアンディ・グローブはこう言った。 「パラノイアだけが生き残る」。グーグルのマ リッサ・メイヤーはこう言う。「政治的になる な、データを使え」―。94年にシリコンバレー に居を定めて以来、ウェブビジネスの最先端に かかわってきた著者が読み解くシリコンバレー の言葉の数々を紹介。ここで取り上げられた言 葉は、皆、英語です。日本語訳は上杉隼人氏。 ※Wikipedia:梅田望夫
◆第3定理 技術者の眼

《テクノロジーで旧世界を説得する》

音楽はしばらくその重要性を失ったかも しれないが、 iPod は音楽が人々の生活 に真に意味ある形で戻るのを手助けした。
―― スティーブ・ジョブズ
I think that music faded in importance for a while, and the iPod has helped to bing music back into people's lives in a really way.

◎◆◎アートのたのしみ《サー・トーマス・ローレンス》◎◆◎

A Portrait of a Man possibly William Eden
〈年不詳 個人蔵〉
☆サー・トーマス・ローレンス
(Sir Thomas Lawrence) 〈1769年4月13日 - 1830年1月7日〉 イギリスの画家。ブリストルで生まれ。父は宿屋を営む。6歳 のころから、客の好きな物を描いてみせ、絵かきの片鱗を見せ ていました。父が事業の失敗したときには、トーマスの絵の才 能が家計を支えました。 絵で身を立てる決意をしたトーマスは、1787年にロンドンへ出 て、ジョシュア・レノルズ創設のロイヤル・アカデミーの生徒 となり、彼の絵はたちまち評判を得て、1791年にはアカデミー 会員となります。ほどなく、ディレッタンティ協会の画家に任 命され、国王ジョージ3世のお抱え画家の地位を獲得します。 1820年からロイヤル・アカデミーの会長職に選ばれた。逝去す るまで会長職を務めました。なお、彼は生涯独身を通しました。
☆Sir Thomas Lawrence『自画像』(1788年)
   〈デンヴァー美術館蔵〉 ◆Sir Thomas Lawrence 【アップロード日: 2009/12/09】

◇◆◇マイ視聴コーナー◇◆◇

☆Julie London-Misty (アップロード日: 2008/05/14) 【説明はありません】 ☆☆ジュリー・ロンドン ジュリー・ロンドン(Julie London) (1926年9月26日 - 2000年10月18日) アメリカの女優、歌手。本名、カリフォルニア州サンタローザ 生まれ。両親はヴォードヴィルの歌と踊りのチームでラジオ番 組を持っていた。幼い頃のジュリーもその番組に出演しており、 3歳の時にはマレーネ・ディートリッヒのヒット曲「フォーリ ング・イン・ラヴ・アゲイン」を披露。1944年、『ジャングル の妖女』で映画女優としてデビューしたが下積み時代を過ごし た。1947年に役者のジャック・ウェッブ(Jack Webb)と結婚し、 徐々に主婦業に集中する。二人の娘を出産したが、1953年に離 婚。離婚後、芸能界へ復帰。1950年代になってから歌手に転向 し、ナイトクラブで歌うようになる。ジャズピアニストで「ル ート66(Route 66)」の作曲家としても有名なトゥループの指 導を受け、本格的なジャズシンガーとしてのキャリアをスター トさせた。1959年12月31日、トゥループと結婚し、トゥループ のプロデュースでアルバムもリリースした。 1955年、ファーストアルバム『Julie Is Her Name(邦題:彼 女の名はジュリー)』を録音。同アルバム内からシングル・カ ットされた『クライ・ミー・ア・リバー(Cry Me a River)』 がヒットして一躍人気歌手となった。 ★Wikipedia:ジュリー・ロンドン

◎歌集 『美しく愛(かな)しき日本』 岡野弘彦◎より

親ゆずり 祖父(おほぢ)ゆずりの政治家(まつりごとびと) 世に傲(おご)り 国をほろばす 民を亡(ほろ)ぼす 歌集 美しく愛しき日本
◆"Abe Shinzo, a Far-Right Denier of History"
安倍晋三 極右の歴史否定論者〉 (by The Asia-Pacific Journal, Vol 11, Issue 1, No. 1, January 14, 2013)

◆◇◆日本国よ、沖縄に謝れ! 日本国よ、福島を返せ!◆◇◆