「読書人」の本来の意味は、「読み書きのできる人」

「読書人」の本来の意味は、「読み書きのできる人」

【漢語が抜群の表現力をもつ世界最高の言語である
 ことは言を俟たないが、あまりにも高度に完成さ
 れてしまったがゆえに、難しすぎて、識字率が低
 く、十分に読み書きのできる人はそれだけでエリ
 ートとされ、「読書人」と呼ばれて尊敬を集めた】


浅田次郎著『ま、いっか。』(104)

第三章 ことばについて(11)
◇読書人◇(その1)

「読書人」の本来の意味は、「読み書きのできる人」

《「 ◆ハッとするピクチャー(Source:REUTERS◇) ◇Displaced from Congo (A Congolese refugee child displaced by fighting between the Congo army and rebel group Allied Democratic Forces (ADF) last week cries on arrival at Bukanga transit camp in Bundibugyo town camp 376km (238 miles) southwest of Uganda capital Kampala July 16, 2013. REUTERS/James Akena) 「読書人」の本来の意味は、「読書をする人」 ではなく「読み書きのできる人」である。 もっと正確にいうなら、「科挙に合格して官 途についた人」すなわち「士大夫(したいふ」 と同義である。 漢語が抜群の表現力をもつ世界最高の言語で あることは言を俟たないが、あまりにも高度 に完成されてしまったがゆえに、難しすぎて 識字率が低く、十分に読み書きのできる人は それだけでエリートとされ、「読書人」と呼 ばれて尊敬を集めた。 そもそも科挙という官吏登用制度は、門地に かかわらず広く人材を求めて皇帝直属の官僚 団を組織し、貴族勢力に対抗させようとする アイディアが起源となっている。 ところが、学問をするためにはそれなりの環 境が必要であるから、実はさほど公平な制度 ではなく、貴族の子弟や地方郷紳(きょうし ん)層の恵まれた子供らが、結局は、役人に なる。 すると下々から見れば、「読書人」は、はな から封建社会における「偉い人」。つまり支 配階層を意味する結果となった。 遥か隋代に始まり、一九〇五年の廃止にいた るまで千三百年間の長い歴史がありながら、 科挙が公平な人材登用制度とはなりえず、封 建社会をつき崩すことができなかった理由は これである。 中国には国民生活の現実を知る政治家が、そ の間ずっと出現しえなかった。 」》 ■《中国には国民生活の現実を知る政治家が、 その間ずっと出現しえなかった》 その悪しき伝統は、現今も、「太子党」に受 け継がれている(?)。 「太子党」とは、中国共産党の高級幹部の子 弟等で特権的地位にいる者たちを指す。 世襲的に受け継いだ特権と人脈を基にして、 中国の政財界に大きな影響力を持つ。太子は、 日本語の「皇太子」、英語の「Crown Prince」 と同じ意味。党組織だけでなく、コネを生か して企業経営等に関わるケースが少なくない。 その一人が、習仲勲の子、習近平浙江省党 委書記、上海市党委書記、中華人民共和国副 主席、中国共産党中央委員会総書記とエリー トコースの階段を登ってきました。 いずれにせよ、浅田次郎さんは中国に詳しい。 彼の著作『蒼穹の昴』を読めば、それがわか る。科挙の話も当然ながら出てきます。聞き しに勝る科挙の実態に目がひらきます。 科挙は、中国で行われていた公務員採用資格 試験。隋の時代に始まり、唐代・宋代でほぼ 完成。以後、清帝国末期に廃止されるまで、 (元代の中断を除き)千年以上も行われていま した(598年〜1905年)。 伝統的に商工業が軽んじられる儒教的な文化 風土を持ち、かつ、宋代以降の文治主義の確 立した中華帝国にあっては、科挙こそが立身 出世の第一の道であり、このため現代の受験 も遠く及ばぬほどの重みを持っていました。 出題内容が古典に偏っていたため、学問全体 が、悪い意味で、訓詁学的な方向に偏りがち となり、結果的には学問の停滞を招いたとも 言われます。最終的には清帝国末期に廃止さ れました。 科挙といえば、阿倍仲麻呂(698年〜770年)に 触れないではいられません。 奈良時代の遣唐留学生。姓は朝臣。唐で難関 の科挙に合格し、唐朝諸官を歴任して高官に 登りつめました。が、日本への帰国を果たせ ませんでした。中国名は仲満、のちに晁衡 (ちょうこう、朝衡とも)。 楊貴妃を寵愛したことで知られる玄宗皇帝に 仕え、洛陽の司経局校書、左拾遺、左補闕な どの高官位に就きました。 仲麻呂は、唐の朝廷で主に文学畑の役職を務 めたことから、李白・王維・儲光羲ら数多く の唐詩人と親交していたらしく、『全唐詩』 には、彼を扱った唐詩人の作品が現存してい ます。 歌人仲麻呂の作品として、「天の原 ふり さけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月 かも」が百人一首に選ばれています。 この歌を詠んだ経緯について、天平勝宝5年 ( 753年)帰国する仲麻呂を送別する宴席にお いて、王維ら友人の前で日本語で詠ったなど 諸説あります。 現在、陝西省西安市にある興慶宮公園の記念 碑と江蘇省鎮江にある北固山の歌碑には、こ の歌を漢詩の五言絶句の形で詠ったものが刻 まれています。 〈原文〉 〈書き下し文〉 翹首望東天 首を翹げて東天を望めば 神馳奈良邊 神(こころ)は馳す 奈良の辺 三笠山頂上 三笠山頂の上 思又皎月圓 思ふ 又た皎月の円(まどか)なるを なお、『全唐詩』巻 732には、仲麻呂が帰国 時に作った五言排律「銜命還国作」を収録し ています。(作者名は「朝衡」)。なお、この 詩は、王維が朝衡(晁衡:仲麻呂)に贈った 送別の詩“送秘書晁監還日本國”へのお返し に作ったものと言われています。 ☆阿倍仲麻呂 ・『前賢故実』より 『天の原 ふりさけみれば 春日なる  三笠の山に いでし月かも』 (月岡芳年『月百姿』) ☆翔べ麒麟(上) (角川文庫) 翔べ麒麟(上) (角川文庫)藤原広嗣庶子、真幸は遣唐大使護衛士として  大陸へ渡った。長安には玄宗皇帝の信頼を一身  に集める日本人高官、朝衡すなわち阿倍仲麻呂  がいた。在位四十年、玄宗楊貴妃への愛に溺  れていた。帝国の財政、司法、警察の絶対権を  司る男、楊国忠。兵馬の大権を握り、辺境に陣  取る安禄山。二人が衝突すれば、国難は必至。  智謀に優れた吉備真備が加わり、各人の思惑が  錯綜する中、真幸は思わぬ役割を命ぜられ―。  壮大な大河小説) ※科挙を詠った唐詩人・孟郊「登科後」  の朗読を聴くことができます。 ☆★☆サイト『漢詩の朗読』
登科後 孟郊(とうかご もうこう)
昔日齷齪不足誇 今朝放蕩思無涯 春風得意馬蹄疾 一日看尽長安花 昔日の齷齪誇るに足らず、 今朝放蕩として思涯無し。 春風意を得て馬蹄疾し、 一日看尽くす長安の花。 ・現代語訳・ 今まで積み重ねてきた苦労は自慢するほどのことではないのだが、 今朝はのびのびした気分で、どこまでも嬉しい。 春風を受けて得意満面、馬の蹄も軽やかだ。 長安の花を一日で見尽くしてしまうほど、晴れやかな気分だ。 ・解説・ 科挙の試験に受かって、やっと任官の道が開けた、その晴れ晴れ した気持ちです。孟郊は四十六歳にして試験に受かりました。 二浪三浪どころの騒ぎじゃないんです。それゃ晴れ晴れもします。 科挙は隋代の598年に始まり清代の1905年に廃止されるまで1300年 以上も続いた試験制度。 最終的に合格して進士となれる者は数千 人に一人でした。 孟郊のように長年の浪人生活を強いられる者も多かったのです。あ まりの難関っぷりに絶望し、反乱を起こす者も出るなど、社会に歪 みも生みました。 ☆2010年 中日合拍電視劇 蒼穹之昴 - 光緒選妃 (公開日: 2012/03/06) 【慈禧中意自己的姪女喜子當皇后,但又知喜子才貌均不出?,  因此在光緒選秀前特別暗示光-緒,要選個平庸點的皇后,  後宮較不會生亂,但光緒對這位表姐一向不喜,奈何他又不  敢違-逆太后的意思,只好還是立喜子為后,此時的珍妃對  進宮沒?意圖,冷眼旁觀感到好笑,頗-有在旁看熱鬧的?皮】 (つづく) (1458dys-910ent) (1459dys-910ent金)休〜(1461dys-910ent日)休 ☆浅田次郎著『ま、いっか。』(集英社文庫) ま、いっか。 (集英社文庫) ・文庫:272ページ ・出版社:集英社 (2012/11/15) ・さあ、身近の「ま、いっか」について、もう一度考え直して みようか、と。花と読書を愛した青春時代の思い出。巷に氾濫 する美人たちへの忠告。旅と買い物の、とっておきの楽しみ方。 老化について、女の誤解と男の本音。豊富な話題をもとに粋な オヤジ目線で語られるのは、江戸っ子らしいキレの良さと滋味 たっぷりの現代考察。著者の生き方の美学がきらりと光る、軽 妙洒脱なエッセイ集。 自分のために笑え。人のために笑え。いつも背筋を伸ばし、鉄 の心を忘れるな。粋に、一途に、ゆうるりと。浅田次郎が贈る、 軽妙洒脱な生き方指南。 ◎浅田次郎。1951年、東京都出身。自衛隊に入隊、除隊後はア パレル業界など様々な職につきながら投稿生活を続け、1991年、 『とられてたまるか!』で、デビュー。悪漢小説作品を経て、 1995年『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞、1997年『鉄 道員』で直木賞、2000年『壬生義士伝』で柴田錬三郎賞、2006 年『お腹召しませ』で中央公論文芸賞司馬遼太郎賞、2008年 『中原の虹』で吉川英治文学賞を、それぞれ受賞。時代小説の 他に『蒼穹の昴』、『中原の虹』などの清朝末期の歴史小説も 含め、映画化、テレビ化された作品も多い。 ・浅田次郎

浅田次郎著『ま、いっか。』(104)

◆◇◆立ち読み◆◇◆

鈴木智彦『ヤクザと原発 福島第一潜入記』文藝春秋刊(262)

・単行本: 256ページ ・出版社:文藝春秋 (2011/12/15) ・原発は儲かる。どでかいシノギだな。電力会社と交渉して、 ゼネコンと話付けて、地元の土建屋に仕事を振る。代紋なしで はとても捌ききれん。原発はタブーの宝庫。裏社会の俺たちに は、打ち出の小槌となるんだよ」。ヤクザが語る衝撃の事実。 日本最大のタブーがいま明かされる! 誰も書けなかった 命 懸けの衝撃ノンフィクション―。 ★ヤクザと原発 福島第一潜入記 ▼△終章「ヤクザと原発」の落とし前(28)△▼
・除染しない車両・(その2)

「(除染を)なんにもしないんですか?」「無駄だから」

《「――「今日は車両をとりに行くから。バスに乗らないでくれ」 シルバーのワンボックスカーで20キロ圏内に入った。1Fから 10キロほど離れた峠道に深い緑色のメタリックカラーのユニッ クが停まっていた。 最初の死亡事故を起こし、撤退した不二代建設の所有車両で、ガ ス欠のため2ヵ月近く放置されていたという。 リーダー格のベテラン社員は、持参したポリタンクから経由を補 給し、手慣れた動作で燃料ホースのエア抜きを行った。あっけな くエンジンはかかった。ユニックの助手席に乗り、私はJヴィレ ッジに戻った。 〈あんな場所に長時間停めっぱなしだったから除染するだろう。 どのくらいの時間はかかるか測ろう〉 鞄にしまってあったデジタル腕時計を取り出し、ストップウォッ チで計測した。1本目のタバコを吸い終わらないういちに、その ユニックはIHIの駐車場に到着した。 「なんにもしないんですか?」 「無駄だから」 もう1台の車両を引き上げにいった班は、正規の除染作業を行な っていた。除染は事前予約制になっており、それを無視出来なか ったのだ。 30分ほど待たされたが、上会社の社員はたいそうご立腹の様子 で「なんでいちいち除染してくんのよ!」と、下請け作業員を怒 鳴りつけていた。 こうした風景は単なる例外……モラルの低い社員がごく少数存在 しているだけと勘違いしていたが、1Fの復旧では日常的な慣習 だった。 ――」》

■県原子力専門部会の委員2人が寄付280万円受領

愛媛新聞】(2013年07月18日) 【写真】原発業者から受け取った寄付金について、  報道陣の取材に答える宇根崎博信氏=17日、  松山市南堀端町 愛媛県伊方原発環境安全管理委員会原子力安全専門部会の委員2 人が2009〜12年度、原子力関連の会社や団体から寄付など で計280万円を受け取っていたことが17日、分かった。 同部会は、県が四国電力伊方原発伊方町)の再稼働の是非を判 断する際、原子力地震の専門的見地から意見を求められる。県 は「四電との利益相反はなく、問題はない」としている。2人は、 北海道大大学院工学研究科の奈良林直教授(2月就任)と、京都 大原子炉実験所の宇根崎博信教授(10年6月就任)。   北大によると奈良林氏は、四電など電力各社が出資する日本原子 力発電から09〜11年度に毎年50万円ずつ計150万円、伊 方原発に燃料を納入している核燃料加工会社の原子燃料工業から 10年度に50万円の計200万円の寄付を受けていた。   また、奈良林氏は原子力規制委員会東京電力福島第1原発事故 の分析を行う検討会の委員も務めており、規制委が公開している 自己申告書によると、東電から425万5000円(10年度)、 原子燃料工業から約27万円(同)の共同研究費を受け取ってい た。宇根崎氏は関西電力の関連団体「関西原子力懇談会」から研 究費名目で80万円の寄付を受領。 ▼原発マネー腐敗は、広く深く、蔓延している。 ☆福島第1原発残骸 ☆化学防護服 デュポン タイベック ソフトウェアIII型
★☆★福島民報のニュースサイト
◆◇◆立ち読みのはしご◆◇◆

鎌田慧、斉藤光政『ルポ 下北核半島――原発と基地と人々』☆

・単行本(ソフトカバー): 224ページ ・出版社: 岩波書店 (2011/8/31) ・原子力発電所・核燃料再処理工場・ウラン濃縮工場・ MOX燃料加工工場・高レベル放射性廃棄物貯蔵施設・ 使用済核燃料の中間貯蔵施設、さらに核戦争の最前線基 地として機能する米軍三沢基地。『六ヶ所村の記録』か ら20年、原子力と軍事に侵食される本州最北の地を見 つづけてきた二人のジャーナリストによる報告。 使用済み核燃料が大量に集積される、もっとも危険な原 子力施設 ― 六ヶ所再処理工場原子力センターが姿を 現しつつあるそこは、かつて、農民の土地だった。マグ ロ漁でしられる本州最北端の大間町では、危険と隣合わ せの「最新鋭」原発が建設されている。 その建設地のど真ん中で、建設に抗い、自然エネルギー で暮らす母と娘がいる。原子力開発・核燃サイクルとい う国策のもとに押し潰されてきた人々の暮らしと土地、 そして矜持。フクシマ原発災害を出来させた構造と同じ 光景が広がる下北核半島の現況をリポートする。 ★ルポ 下北核半島――原発と基地と人々 ▼△ルポ 下北核半島――原発と基地と人々△▼(32)
・第1章 悲劇の六ヶ所村(27)
事故つづきの再処理工場(その2)

高レベル廃液を、何かああ液が漏れちゃた程度、そんな認識

《「――が、おどろくべきことに、もっとも危険な放射性物質を あつかう化学工場が、分析、点検をサボっていたのである。 これには、プロジェクトチームの専門委員たちもさすがに驚いた ようだ。 「正直申し上げて、日本原燃株式会社さんはこの高レベル廃液の 漏洩という、この問題についての認識が非常に甘いというふうに 私は思います。 高レベル廃液の漏洩というのは、再処理施設のリスクの上限影響 を決めるバウンディングイベントなんですね。 確かに実際の廃液は、非常に燃焼度も低かったり冷却期も長かっ たりするから、起きた(放射線量の)上昇は大したことではない かも分かりませんけれども、これは最も重要な事象の一つで、そ のためにこれに関する安全上重要な施設になっているし、保安規 定もきっちり書かれているはずなんです。 それにもかかわらず、ご説明なり、この資料の作り方にしてもそ うですけれど、何か、ああ液が漏れちゃた程度、そんな認識しか ないんではないかというふうに思います。 そういう意味で、規制調査という意味から言いますと、原子力安 全・保安院の中でこういう問題を指摘されたのは、非常に大事な ご指摘だったと思います」 ――」》 ★原発ヒロシマ――「原子力平和利用」の真相 (岩波ブックレット) 原発とヒロシマ――「原子力平和利用」の真相 (岩波ブックレット)

◎◎◎万能川柳20周年記念ベスト版◎◎◎

仲畑貴志・編集  毎日新聞社刊 (2011/4/14) 毎日新聞の「仲畑流万能川柳」に寄せられた作品  の中から、秀逸句を厳選したとっておきの1260句。  20周年記念特別企画として糸井重里氏、南伸坊氏  ら爆笑鼎談も収録。泣いて笑って20年。5年半、  264万句から超厳選。日本のつぶやき傑作集。 ★万能川柳20周年記念ベスト版
・警察で一番まじめ警察犬      横浜 向い風
・よけてく子とびこむ子いる水たまり 宝塚 ねむたい
・殺し合わなくともみんな死ぬものを 山田 オアシス

☆★☆≫ 詩歌逍遙 ≪☆★☆

・かやの木山の・
          北原白秋  かやの木山の かやの實は、 いつかこぼれて、 ひろはれて。 山家(やまが)のお婆(ば)さは いろり端(ばた)、 粗朶(そだ)たき、柴たき、 燈(あかり)つけ。 かやの實、かやの實、 それ、爆(は)ぜた。 今夜も雨だろ、 もう寢ねよよ。 お猿が啼くだで、 早よお眠(ね)よ。 (童話) ※北原白秋 (1885年1月25日 - 1942年11月2日) 本名隆吉。柳河市生れ。処女詩集「邪宗門」をはじめ、 「思い出」「白金の独楽」で詩壇に新風を送り、ついで 「赤い鳥」誌上に童謡を発表、世人に愛唱された。短歌 にも才能を発揮し、官能的な作風は「桐の花」から晩年 「黒檜」の枯淡に達した。著書八十巻におよび詩・歌集 のほか「雀の生活」等の随筆集がある。 ※Wikipedia:北原白秋   

◇◆◇『西方の人』◇◆◇〈11〉

西方の人 イエス・キリストのこと。「西方」という言葉は、 地理的・文化的な「西洋」に対し、思想的・宗教的な意味をこめ て使われている。「西方」は〈さいほう〉〈せいほう〉の二つの 読みが現在行われている。
・11 ヨハネ
バプテズマのヨハネロマン主義を理解出来ないクリストだつた。 彼の威厳は荒金のやうにそこにかがやかに残つてゐる。 彼のクリストに及ばなかつたのも恐らくはその事実に存するであ らう。クリストに洗礼を授けたヨハネはかしの木のやうに逞しか つた。 しかし獄中にはひつたヨハネはもう枝や葉に漲つてゐるの木の力 を失つてゐた。彼の最後の慟哭はクリストの最後の慟哭のやうに いつも我々を動かすのである。―― 「クリストはお前だつたか、わたしだつたか?」 ヨハネの最後の慟哭は――いや、必しも慟哭ばかりではない。太 いの木は枯かかつたものの、未だに外見だけは枝を張つてゐる。 若もしこの気力さへなかつたとしたならば、二十何歳かのクリス トは決して冷かにかう言はなかつたであらう。「わたしの現にし てゐることをヨハネに話して聞かせるが善い。」

■◇■《シリコンバレー金言集》■◇■

梅田望夫著『ウェブ時代5つの定理』から
・文庫: 302ページ ・出版社: 文藝春秋 (2010/2/10) ウェブ時代5つの定理 (文春文庫)インテルアンディ・グローブはこう言った。 「パラノイアだけが生き残る」。グーグルのマ リッサ・メイヤーはこう言う。「政治的になる な、データを使え」―。94年にシリコンバレー に居を定めて以来、ウェブビジネスの最先端に かかわってきた著者が読み解くシリコンバレー の言葉の数々を紹介。ここで取り上げられた言 葉は、皆、英語です。日本語訳は上杉隼人氏。 ※Wikipedia:梅田望夫
◆第2定理 チーム力

《いいチームで仕事をする幸福感》

人はなぜチームスポーツを好むのか、 チームの一員となることを好むのか、 リナックスを見ればよくわかるよ。
―― リーナス・トーバルズ
Linus is great example of why people love team sports, and especially being a part of team.

◎◆◎アートのたのしみ《サー・トーマス・ローレンス》◎◆◎

Lady Robert Manners
〈1826年 個人蔵〉
☆サー・トーマス・ローレンス
(Sir Thomas Lawrence) 〈1769年4月13日 - 1830年1月7日〉 イギリスの画家。ブリストルで生まれ。父は宿屋を営む。6歳 のころから、客の好きな物を描いてみせ、絵かきの片鱗を見せ ていました。父が事業の失敗したときには、トーマスの絵の才 能が家計を支えました。 絵で身を立てる決意をしたトーマスは、1787年にロンドンへ出 て、ジョシュア・レノルズ創設のロイヤル・アカデミーの生徒 となり、彼の絵はたちまち評判を得て、1791年にはアカデミー 会員となります。ほどなく、ディレッタンティ協会の画家に任 命され、国王ジョージ3世のお抱え画家の地位を獲得します。 1820年からロイヤル・アカデミーの会長職に選ばれた。逝去す るまで会長職を務めました。なお、彼は生涯独身を通しました。
☆Sir Thomas Lawrence『自画像』(1788年)
   〈デンヴァー美術館蔵〉 ◆Sir Thomas Lawrence 【アップロード日: 2009/12/09】

◇◆◇マイ視聴コーナー◇◆◇

☆ビビディ・バビディ・ブー Bibbidi-Bobbidi-Boo Perry Como (アップロード日: 2011/06/28) 【「シンデレラ」の挿入曲です。歌は私の趣味で Perry Comoにしました。】 ☆☆ペリー・コモ ・ペリー・コモ(Perry Como) (1912年5月18日 - 2001年5月12日) ペンシルベニア州キャノンズバーグでイタリア系 アメリカ人の家庭にPierino Comoとして生まれた。 理髪店の見習いをしていた頃に町の歌声コンクー ルで優勝したことがきっかけで、1936年に歌手と してデビューした。当時は「歌う床屋さん」と呼 ばれて親しまれた。 1945年の「時の終わりまで」が初めてのミリオン ・セラー。このほか「パパはマンボがお好き」 「イッツ・インポッシブル」「アンド・アイ・ ラブ・ユー・ソー」などのスタンダード・ヒット 曲を持つ。全米ナンバー・ワンとなった歌は14曲。 ★Wikipedia:ペリー・コモ

自民党CM「日本を、取り戻す」それをおっしゃるなら、先ず;

◆◇◆日本国よ、沖縄に謝れ! 日本国よ、福島を返せ!◆◇◆