ヨーロッパでは、いったんパリに入るというのが私の流儀

ヨーロッパでは、いったんパリに入るというのが私の流儀

【ロンドンのヒースロー空港はむやみに広く乗り継
 ぎも手間取るうえ、9・11以後は、通関や登場
 時の検査がすこぶる厳重になった。その点、パリ
 のシャルル・ド・ゴール空港は使い勝手がいい。
 なおかつ、パリを旅の起点にすれば、空路ばかり
 でなく、車や鉄道で自在に移動することもできる】

浅田次郎著『ま、いっか。』(75)

第2章 ふるさとと旅(23)
◇私のパリ◇(その1)

ヨーロッパでは、いったんパリに入るというのが私の流儀

《「 ◆ハッとするピクチャー(Source:REUTERS◇) ◇Anti-Japan rally in Seoul (An injured Vietnam War veteran scuffles with South Korean police during an anti-Japan rallyin front of the Japanese embassy in Seoul May 23, 2013. The rally was held to denounce Japan's Prime Minister Shinzo Abe and demand an official apology for Japan's war crimes during World War Two. Protesters also condemned controversial comments by Toru Hashimoto, the mayor of the Japanese city of Osaka, who said last week that Japan's military brothels during World War Two were "necessary" to provide respite for soldiers, said organisers. REUTERS/Kim Hong-Ji) ヨーロッパを旅するときは、とりあえずいっ たんパリに入るというのが私の流儀である。 そしてまた帰路もパリに戻って一泊か二泊し なければ、なぜか旅は終わらない。 むろんかっては目的と日程に合わせてさまざ まのルートをたどっていたのだが、経験を重 ねるうちに結局この方法が最も合理的だと気 付いた。 いつも原稿締切の合い間を縫う器用な旅であ るから、事前に正確な旅程が組めない。また 原稿を無事書き上げて出発したとても、数日 後にはファックスのやりとりでゲラ校正をせ ねばなず、急な問題が生ずることもままある ので、ずっと行方不明というわけにいかない。 小説家という特殊な職業に慣れぬうちは、世 間並みの計画を立ててずいぶんトラブルを引 き起こした。 つまり、そのようにまったくこっちの都合で 旅をしなければならないから、便数の多い都 市に飛んでいったん腰を落ち着け、追いかけ てくる電話やファックスを処理するのである。 帰途にも同様の一日か二日の準備をしておけ ば、へんてこな文章や誤字が読者の目に触れ ることはない。 そこで、いわば日本における日常とヨーロッ パにおける非日常の中間にある場所が、どう しても必要になった。便数の多さからすると、 これはロンドンかパリである。 しかし、ロンドンのヒースロー空港はむやみ に広く乗り継ぎも手間取るうえ、9・11以 後は通関や登場時の検査がすこぶる厳重にな った。 その点、パリのシャルル・ド・ゴール空港は 使い勝手がいい。なおかつパリを旅の起点に すれば、空路ばかりでなく車や鉄道で自在に 移動することもできる。 」》 ■ひさしぶりに海外へでます。それもパリで す。数十年前、初めて、パリを訪れたときの、 感慨はいまも鮮明に覚えています。 恥ずかしながら、夢ここちでした。世界のい ろんな都市を訪れましたが、三ヶ月ほど住ん でみて、土地勘を得たいと思った最初の都市 です。 そのパリで、「バロン薩摩」と呼ばれた日本 人がいました。その人の名は、薩摩治郎八。 東京・日本橋において一代で巨万の富を築き 「木綿王」と呼ばれた薩摩治兵衛の孫として 生をうけます。 大正9年(1920)、十八歳で渡欧し、イ ギリスのオックスフォード大学に留学し、ギ リシア演劇などを学びつつ、「アラビアのロ レンス」として知られたトーマス・エドワー ド・ロレンスや、藤原義江などと親交を結ん でいます。 なお、当時、月々の仕送りは、当時のお金で 1万円(現在の価値で約7000万円)だっ たといわれています。 大正11年(1922)に、当時、好景気を 背景に隆盛を極めていたフランスのパリに向 います。 パリでは、16区の高級住宅街に豪奢な住居 を構え、カンヌやドーヴィルなどのリゾート 地を行き来する生活を送り、イサドラ・ダン カンやジャン・コクトーなどとの親交を深め ました。 そして、当時のヨーロッパの社交界にその名 を轟かしました。その豪快かつ華麗な振る舞 いから、爵位がなかったのにもかかわらず、 「バロン薩摩」と呼ばるようになります。 当時の金で二億円を投じて日本館を建設し、 また、藤田嗣治、原知智恵子、渡辺一夫らパ リに滞在した日本の芸術文化人のパトロンと なっています。 こんなわけ、フランスで、10年間で現在の 貨幣価値で約600億円使っています。 しかし、昭和二十六年(1951)、無一文 となり、帰国。五十歳でした。すごいですね。 ☆「バロン・サツマ」と呼ばれた男―薩摩治郎八とその時代 「バロン・サツマ」と呼ばれた男―薩摩治郎八とその時代 ☆蕩尽王、パリをゆく―薩摩治郎八伝 (新潮選書) 蕩尽王、パリをゆく―薩摩治郎八伝 (新潮選書) ☆薩摩治郎八―パリ日本館こそわがいのち (ミネルヴァ日本評伝選) 薩摩治郎八―パリ日本館こそわがいのち (ミネルヴァ日本評伝選) (つづく) (1407dys-881ent) ☆浅田次郎著『ま、いっか。』(集英社文庫) ま、いっか。 (集英社文庫) ・文庫:272ページ ・出版社:集英社 (2012/11/15) ・さあ、身近の「ま、いっか」について、もう一度考え直して みようか、と。花と読書を愛した青春時代の思い出。巷に氾濫 する美人たちへの忠告。旅と買い物の、とっておきの楽しみ方。 老化について、女の誤解と男の本音。豊富な話題をもとに粋な オヤジ目線で語られるのは、江戸っ子らしいキレの良さと滋味 たっぷりの現代考察。著者の生き方の美学がきらりと光る、軽 妙洒脱なエッセイ集。 自分のために笑え。人のために笑え。いつも背筋を伸ばし、鉄 の心を忘れるな。粋に、一途に、ゆうるりと。浅田次郎が贈る、 軽妙洒脱な生き方指南。 ◎浅田次郎。1951年、東京都出身。自衛隊に入隊、除隊後はア パレル業界など様々な職につきながら投稿生活を続け、1991年、 『とられてたまるか!』で、デビュー。悪漢小説作品を経て、 1995年『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞、1997年『鉄 道員』で直木賞、2000年『壬生義士伝』で柴田錬三郎賞、2006 年『お腹召しませ』で中央公論文芸賞司馬遼太郎賞、2008年 『中原の虹』で吉川英治文学賞を、それぞれ受賞。時代小説の 他に『蒼穹の昴』、『中原の虹』などの清朝末期の歴史小説も 含め、映画化、テレビ化された作品も多い。 ・浅田次郎

浅田次郎著『ま、いっか。』(75)

◆◇◆立ち読み◆◇◆

鈴木智彦『ヤクザと原発 福島第一潜入記』文藝春秋刊(233)

・単行本: 256ページ ・出版社:文藝春秋 (2011/12/15) ・原発は儲かる。どでかいシノギだな。電力会社と交渉して、 ゼネコンと話付けて、地元の土建屋に仕事を振る。代紋なしで はとても捌ききれん。原発はタブーの宝庫。裏社会の俺たちに は、打ち出の小槌となるんだよ」。ヤクザが語る衝撃の事実。 日本最大のタブーがいま明かされる! 誰も書けなかった 命 懸けの衝撃ノンフィクション―。 ★ヤクザと原発 福島第一潜入記 ▼△第五章 原発稼業の懲りない面々(51)△▼

・正体がばれる・(その5)

作業員たちも村の一員であることに変わりない
《「―――作業員たちも村の一員であることに変わりない。村民 意識は無自覚だが、外部の人間からは奇異に映るので目に付きや すい。 マイルドにいえば地元意識で、他の地域からやってくる“寄せ集 め”との出稼たちとの間には、埋めようのない大きな溝が存在し ている。 「俺たちの同僚には被災者が多い。それにみんな地元の人たちに 対して、申し訳ない気持ちを持っている。自分たちが、悪いわけ じゃないけど、やっぱり自分が働いてた原発でこんなことになっ たんだから。 でも余所から来る作業員はこんな気持なんか持っていない。ただ 単に金稼ぎに来て下手すりゃ観光気分だろう。ありがたいけど迷 惑と思うときがある」(双葉郡に生まれ、自らも被災した協力企 業幹部) 加害者意識が入り交じった地元・作業員の心境は、程度の差はあ っても、共犯者しての連帯感を増幅している。社会から爪弾きに されることで強力な団結力を生む暴力団社会とひどく似ている。 ――」》 ☆福島第1原発残骸 ☆化学防護服 デュポン タイベック ソフトウェアIII型
■インド首相:日印原子力協定交渉、前進に強い意欲
毎日新聞】(2013年05月25日) 【ニューデリー杉尾直哉】インドのマンモハン・シン首相は25 日、訪日を前にニューデリーの首相公邸で毎日新聞などと会見し た。2011年3月の東京電力福島第1原発事故以降、中断して いる日印原子力協定交渉について、「今回の訪問で前進すること を強く望んでいる」と語り、交渉再開や妥結へ向けた取り組みに 強い意欲を見せた。 シン首相は27日から日本を訪問し29日に安倍晋三首相と会談 する。シン首相は「両国の戦略的パートナー関係を強化したい。 原子力協定の合意へ向けた努力もこの中に含まれる」と述べ、原 子力協定を日印の戦略的関係の柱に位置付ける考えを示した。 →→→☆☆☆記事全文へ続く ▼インドは核保有国で、核実験の強行で30年以上も国際社会か ら原子力関連貿易や技術移転の制限を受けている国なのだ。イン ドに原発を売ることは核兵器開発の共犯者になることを意味する。 かたや、23日、菅官房長官は記者会見で、日本への原爆投下を 「神の懲罰」とするコラムを掲載した韓国紙・中央日報に対し、 「誠に不見識だ。我が国は唯一の被爆国で、原爆に対するこうし た認識は断じて許すことはできない」と厳しく批判しましたが、 “我が国は唯一の被爆国”とは、しらじらしい、二枚舌め!

※3・11から26カ月 避難の福島県民15万3770人※

◆◇◆立ち読みのはしご◆◇◆

鎌田慧、斉藤光政『ルポ 下北核半島――原発と基地と人々』☆(3)

・単行本(ソフトカバー): 224ページ ・出版社: 岩波書店 (2011/8/31) ・原子力発電所・核燃料再処理工場・ウラン濃縮工場・ MOX燃料加工工場・高レベル放射性廃棄物貯蔵施設・ 使用済核燃料の中間貯蔵施設、さらに核戦争の最前線基 地として機能する米軍三沢基地。『六ヶ所村の記録』か ら20年、原子力と軍事に侵食される本州最北の地を見 つづけてきた二人のジャーナリストによる報告。 使用済み核燃料が大量に集積される、もっとも危険な原 子力施設 ― 六ヶ所再処理工場原子力センターが姿を 現しつつあるそこは、かつて、農民の土地だった。マグ ロ漁でしられる本州最北端の大間町では、危険と隣合わ せの「最新鋭」原発が建設されている。 その建設地のど真ん中で、建設に抗い、自然エネルギー で暮らす母と娘がいる。原子力開発・核燃サイクルとい う国策のもとに押し潰されてきた人々の暮らしと土地、 そして矜持。フクシマ原発災害を出来させた構造と同じ 光景が広がる下北核半島の現況をリポートする。 ★ルポ 下北核半島――原発と基地と人々 ▼△ルポ 下北核半島――原発と基地と人々△▼
・まえがき(3)

六ヶ所村では核と工業開発の両方が考えられていた

《「―――「朝鮮戦争に動員された米軍の帰休兵が三沢の街にあ ふれた。彼等は戦場から一時の休養のために三沢にやってきた。 再び戦場に出て行けば明日をもしらない生命である。帰休兵たち は外出も外泊も自由だった。 彼等は街に出て、おしみなくドルを使い、酒や女にしばしの慰め を求めた。 街には外人専用バーやキャバレーなどの風俗営業やセックス産業 があふれ不夜城の観を呈し、米兵相手の女性が一〇〇〇人を超え るといわれる異常な景気を現出していた」(『三沢市史』通史編) 沖縄の基地の街とおなじ光景であったであろう。 が、攻防の激戦地となり、軍事占領された沖縄は、敗戦後の一九 四七年九月、昭和天皇がGHQに、「日本に主権を残し租借する 形式で、ニ五年ないし五十年、あるいはそれ以上、沖縄を支配す ることは、アメリカの利益にあるのみならず日本の利益にもなる」 との、メッセージを伝えたように、「租借」がつづいてきた。 「復帰」後、こんどは「祖国」から米軍基地を押しつけられる、 という悲劇的状況となった。核付き返還だった沖縄に、なぜ核の 商業利用としての原発が建設されなかったのか、その理由はわた しにはわからない。遠すぎて工業開発の対象にならなかったから かもしれない。 それと引き換え、六ヶ所村では核と工業開発の両方が考えられて いた。核施設と工業都市とは両立しえないはずなのだ、結果的に は、「むつ小川原開発」は、幻の巨大工業開発計画として雲散霧 消した。その跡に平然と残ったのが、「原子力のメッカ」だった。 ――」》
日本原子力研究開発機構というのは、一体、何たる組織なのだ
さきに、点検漏れで「安全文化の劣化」が指摘され、鈴木篤之理 事長が辞任しばかりなのに、またぞろ、大失態をしでかした。こ の原子力機構と高エネルギー加速器研究機構(KEK)とが、茨 城県東海村で、共同運営する加速器実験施設「J−PARC」に おいて、陽子線を金に照射する実験中に装置が誤作動し、金が高 温になって蒸発し、放射性物質が漏れ出て、施設にいた研究者ら が相次いで被ばくし、放射性物質の一部は施設外にまで出てしま ったというのだ。 ずさんな安全管理の実態には、開いた口がふさがらない。 J−PARCは、事故発生後も、実験を継続しようと、陽子線照 射装置の再起動を繰り返し、施設内の放射線量を下げるために排 気ファンを回しつづけたが、ファンにはフィルターもなく、放射 性物質を、外部にまき散らしたのだ。 ★日本中枢の崩壊 日本中枢の崩壊

◎◎◎万能川柳20周年記念ベスト版◎◎◎

仲畑貴志・編集  毎日新聞社刊 (2011/4/14) 毎日新聞の「仲畑流万能川柳」に寄せられた作品  の中から、秀逸句を厳選したとっておきの1260句。  20周年記念特別企画として糸井重里氏、南伸坊氏  ら爆笑鼎談も収録。泣いて笑って20年。5年半、  264万句から超厳選。日本のつぶやき傑作集。 ★万能川柳20周年記念ベスト版
・「だからよぉ」親方ラッパーみたいだYO 松戸 どびんこ
・隣席はチケットあげた娘のおやじ     前橋 安田隆夫
・見なれると気にならないというフォロー  今治 土岐佳子

☆★☆≫ 詩歌逍遙 ≪☆★☆

・かかるとき我生く・
日夏耿之介 大氣 澄み 蒼穹(そら)晴れ 野禽(とり)は來き啼けり 青き馬 流れに憩ひ彳(た)ち 纎弱(かぼそ)き草のひと葉ひと葉 日光(ひざし)に喘ぎ 『今』のとけいはあらく吐息(といき)す かかるとき我生く              (轉身の頌) ※日夏耿之介(ひなつ・こうのすけ) (1890年2月22日 - 1971年6月13日) 本名は樋口國登。長野県生れ。早大卒後、 同人雑誌「假面」のより、詩壇に出た。 詩集「転身の頌」「黒衣聖母」により自 らゴシック・ロマン詩体と称する詩風を なした。名訳詩多く、英文研究の業績と、 「明治大正詩史」など名著でも知られる。 ※[Wikipedia:日夏耿之介   

◆◇◆◇『侏儒の言葉西方の人』◆◇◆◇

芥川龍之介著 新潮文庫版》 侏儒の言葉・西方の人 (新潮文庫)侏儒の言葉(遺稿)◇
・矜誇・
   我我の最も誇りたいのは我我の持っていないものだけである。 実例。――Tは独逸語に堪能だった。が、彼の机上にあるのはい つも英語の本ばかりだった。                             〈152〉

■◇■《シリコンバレー精神金言集》■◇■

梅田望夫著『ウェブ時代5つの定理』から
・文庫: 302ページ ・出版社: 文藝春秋 (2010/2/10) ウェブ時代5つの定理 (文春文庫)インテルアンディ・グローブはこう言った。 「パラノイアだけが生き残る」。グーグルのマ リッサ・メイヤーはこう言う。「政治的になる な、データを使え」―。94年にシリコンバレー に居を定めて以来、ウェブビジネスの最先端に かかわってきた著者が読み解くシリコンバレー の言葉の数々を紹介。ここで取り上げられた言 葉は、皆、英語です。日本語訳は上杉隼人氏。 ※Wikipedia:梅田望夫

◆第1定理 アントレプレナーシップ

《起業して成功するための条件とは?》
スタートアップ(起業)すること以外の何も思いつかないなら、 スタートアップせよ。
――ロジャー・マクナミー
If you cannot imagine doing anything else other than startup, do the startup.
―― Roger McNamee
(3)  

◎◆◎アートのたのしみ《サー・トーマス・ローレンス》◎◆◎

Portrait of Admiral Sir Edward Pellew
〈年不詳 個人蔵〉
☆サー・トーマス・ローレンス
(Sir Thomas Lawrence) 〈1769年4月13日 - 1830年1月7日〉 イギリスの画家。ブリストルで生まれ。父は宿屋を営む。6歳 のころから、客の好きな物を描いてみせ、絵かきの片鱗を見せ ていました。父が事業の失敗したときには、トーマスの絵の才 能が家計を支えました。 絵で身を立てる決意をしたトーマスは、1787年にロンドンへ出 て、ジョシュア・レノルズ創設のロイヤル・アカデミーの生徒 となり、彼の絵はたちまち評判を得て、1791年にはアカデミー 会員となります。ほどなく、ディレッタンティ協会の画家に任 命され、国王ジョージ3世のお抱え画家の地位を獲得します。 1820年からロイヤル・アカデミーの会長職に選ばれた。逝去す るまで会長職を務めました。なお、彼は生涯独身を通しました。
☆Sir Thomas Lawrence『自画像』(1788年)
   〈デンヴァー美術館蔵〉 ◆Sir Thomas Lawrence 【アップロード日: 2009/12/09】

◇◆◇マイ視聴コーナー◇◆◇

☆Rod Stewart - Da Ya Think I'm Sexy? (Official Video) (アップロード日:2009/10/29) 【Watch the official music video for Rod Stewart's "Do Ya Think I'm Sexy?" from his album 'Blondes Have More Fun' The song was released as a single in late 1978 and spent one week at the top of the British charts in December 1978 and four weeks at the top of the Billboard Hot 100 in February 1979. It also topped the charts in Australia for two weeks. Share this video on Facebook: https://www.facebook.com/sharer/share... http://www.rodstewart.com/ http://facebook.com/rodstewart http://twitter.com/rodstewart】 ☆☆ロッド・スチュワート ・ロデリック・デイヴィッド・スチュワート (Roderick David Stewar)(1945年1月10日 - ) スコットランド系のイギリスのミュージシャン。 60年代後半からジェフ・ベック・グループ、 フェイセズでの在籍を経てソロで活躍。 近年は、『ザ・グレイト・アメリカン・ソング ブック』シリーズの世界的ヒットもあり、カヴ ァー・シンガーとしての側面も注目されている。 ★Wikipedia:ロッド・スチュワート