仙台のサイン会で若者たちの身なりのよさに驚いた

仙台のサイン会で若者たちの身なりのよさに驚いた

【若者たちが普段着にどれくらい気を配っているか
 が全体的なおしゃれ度の指針となる。あんがい気
 付かぬことであるが、町なかでよくよく目を凝ら
 してみれば、仙台の若い男どもの洒落っぷりはま
 さに日本一どころか世界一であろうとさえ思った】

浅田次郎著『ま、いっか。』(68)

第2章 ふるさとと旅(16)
◇独眼竜の子孫たち◇(下)

仙台のサイン会で若者たちの身なりのよさに驚いた

《「 ◆ハッとするピクチャー(Source:REUTERS◇) ◇Serena Williams vs. Maria Sharapova (Serena Williams of the U.S. serves the ball to Maria Sharapova of Russia during their women's singles final match at the Madrid Open tournament in Madrid May 12, 2013. REUTERS/Susana Vera) 先日、久しぶりに仙台でサイン会を催したと き、お越しになった若者たちの身なりのよさ に驚いた。 メンズ・ファッションのレベルはカジュアル でわかる。つまり若者たちが普段着にどれく らい気を配っているかが、全体的なおしゃれ 度の指針となる。 あんがい気付かぬことであるが、町なかでよ くよく目を凝らしてみれば、仙台の若い男ど もの洒落っぷりはまさに日本一どころか世界 一であろうとさえ思った。 伊達政宗の作と伝えられる舟歌にこんなもの がある。 初春の好(よ)き日をどしの着長(きせなが)は 小桜をどしとなりにける さてまた夏は卯の花の 垣根の水にあらひ革 秋になりてのその色は いつも軍(いくさ)に勝色の紅葉にまがう錦革 彼がいかにおしゃれであったかをしのばせる 唄である。 また明暦のころの古文献の一節には、深い編 笠をかぶって顔を見せず、白柄の大小を仙台 平の袴に差し、流行の伊達羽織を腰に巻いて 江戸中を歩むダンディな仙台藩士の姿が書き 留められている。 歌舞伎の舞台にしばしば登場する、「伊達者」 である。 たぶんご当地のみなさんは意識されていない だろうが、仙台の町なかで見かける独眼竜の 子孫たちは、まことにカッコいい。 」》 ■宮城県東部に県内第二の人口を擁する石巻 市が位置しています。 江戸時代、石巻の港は、北上川水運によって 南部藩領から米が運ばれ、河川交通と海運と の結節点として、日本海側の酒田港と列んで、 奥羽二大貿易港として全国的に有名でした。 東北太平洋岸海運の拠点として、千石船によ る江戸との交易が盛んで、江戸期の長い期間 において石巻港から江戸へで送られた米は、 江戸市中で流通する米の半数を占めたと言わ れています。 藩政時代、名実ともに仙台藩の経済の中心地 でした。仙台藩内で唯一貨幣の鋳造を許され、 現在、鋳銭場という地名が石巻駅前に残って います。 ご案内のとおり、1613年、伊達政宗はスペイ ン帝国との通商交渉のために、スペイン王国 およびローマ法王庁支倉常長を正使とする 慶長遣欧使節を派遣。 政宗は、気宇壮大というか、メキシコとの太 平洋貿易を計画し、石巻の港でサン・ファン ・バウティスタ号を建造して、石巻の月の浦 から出航させています。 このとき、それまで小さな漁村だった石巻は 国際貿易港として整備されたましたが、スペ インとの通商は、時代の流れに阻まれて実現 しませんでした。 また、特筆すべきは、日本人として最初の世 界一周を成し遂げた津太夫一行は、石巻港を 拠点としていました。 1793年、石巻を出発して江戸に向いましたが、 アリューシャン列島(当時はロシア領)に漂 着してロシアで10年ほど過ごした後、遣日 使節のニコライ・レザノフらの船に乗って、 1804年に世界一周を成し遂げ、同年長崎に帰 国して、1806年に帰郷しています。 ☆サン・ファン・バウティスタ仙台藩初代藩主・伊達政宗が江戸時代初頭 に同藩陸奥国領内で建造したガレオン船。仙 台領内に滞在していたスペイン人提督セバス ティアン・ビスカイノに協力させて建造した、 約500トン級で最初の日本製西洋型軍船で す。船名は「洗礼者・聖ヨハネ」の意で、元 は「伊達丸」と呼ばれていたとの説も。支倉 常長ら慶長遣欧使節は、仙台とローマとの往 復のうち太平洋横断において同船を使用。 着工: 1613年、進水: 1613年。 ☆津太夫たちの長い夢 津太夫たちの長い夢鎖国真っ只中の江戸時代、地球をひとまわ りして帰ってきた男たちがいた!遭難、漂流 の末、ロシアに辿り着いた水主たちは漂流民 として波瀾万丈の人生を歩む。そして日露の 交渉の狭間で翻弄された運命の結末は…。 10年余りの望郷の念と帰国するまでの紆余 曲折を壮大なスケールで書き上げた力作。漂 流記『環海異聞』の内容は当時の日本人には 夢想だにできない驚天動地の連続だった! (つづく) (1394dys-874ent) ☆浅田次郎著『ま、いっか。』(集英社文庫) ま、いっか。 (集英社文庫) ・文庫:272ページ ・出版社:集英社 (2012/11/15) ・さあ、身近の「ま、いっか」について、もう一度考え直して みようか、と。花と読書を愛した青春時代の思い出。巷に氾濫 する美人たちへの忠告。旅と買い物の、とっておきの楽しみ方。 老化について、女の誤解と男の本音。豊富な話題をもとに粋な オヤジ目線で語られるのは、江戸っ子らしいキレの良さと滋味 たっぷりの現代考察。著者の生き方の美学がきらりと光る、軽 妙洒脱なエッセイ集。 自分のために笑え。人のために笑え。いつも背筋を伸ばし、鉄 の心を忘れるな。粋に、一途に、ゆうるりと。浅田次郎が贈る、 軽妙洒脱な生き方指南。 ◎浅田次郎。1951年、東京都出身。自衛隊に入隊、除隊後はア パレル業界など様々な職につきながら投稿生活を続け、1991年、 『とられてたまるか!』で、デビュー。悪漢小説作品を経て、 1995年『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞、1997年『鉄 道員』で直木賞、2000年『壬生義士伝』で柴田錬三郎賞、2006 年『お腹召しませ』で中央公論文芸賞司馬遼太郎賞、2008年 『中原の虹』で吉川英治文学賞を、それぞれ受賞。時代小説の 他に『蒼穹の昴』、『中原の虹』などの清朝末期の歴史小説も 含め、映画化、テレビ化された作品も多い。 ・浅田次郎

浅田次郎著『ま、いっか。』(68)

◆◇◆立ち読み◆◇◆

鈴木智彦『ヤクザと原発 福島第一潜入記』文藝春秋刊(226)

・単行本: 256ページ ・出版社:文藝春秋 (2011/12/15) ・原発は儲かる。どでかいシノギだな。電力会社と交渉して、 ゼネコンと話付けて、地元の土建屋に仕事を振る。代紋なしで はとても捌ききれん。原発はタブーの宝庫。裏社会の俺たちに は、打ち出の小槌となるんだよ」。ヤクザが語る衝撃の事実。 日本最大のタブーがいま明かされる! 誰も書けなかった 命 懸けの衝撃ノンフィクション―。 ★ヤクザと原発 福島第一潜入記 ▼△第五章 原発稼業の懲りない面々(44)△▼

・百機タンク・(その3)

電動ファン付きのジャケットも配られた
  《「―――休憩時間に私の班でももっとも仕事が出来ると評判の 作業員から「休みなんてこっちが勝手にとればいいんだ。交代交 代で休むから安心してよ」と慰められた。 百機タンクの設置は、サリー以上に過酷になると予想されていた。 4号機の傍にある丘の上が現場で、そこは通称ピラミッドと呼ば れている。 一応除染作業を行い、表面の土を撤去されていたが、地中に埋め 込まれたタンクの上に鉄板が敷かれ、日差しを遮るものがないた め、フライパンの上で作業するに等しい。 これまでのんびりしていたプラントメーカーも、さすがに百機タ ンクに関しては慎重で、ようやく現場にクールベストが配布され た。私が持ち込んでいたアイスノンを装置するタイプではなく、 特別な金属を縫い込んだ高価な商品だ。 この金属は通常の体温を超えた段階で、ようやく冷却効果を発揮 する。そのためはっきりとした涼しさは感じられず、多量の金属 が使われているためかなり重い。日立の現場ではすべての作業員 がこのベストを着用するようされていたらしい。 日立の現場からやってきた熟練工は「あんなもの少しも涼しくな い。ただ重いだけだ。意味がない」と批判し、実際、我が班でベ ストを着用していたのは、私だけだ。 そのほか、電動ファン付きのジャケットも配られた。現場には仮 設テントをはじめ、応急処置のできる特別なバスが配備され、監 督たちは瞬間冷却剤や飲料水が入ったバッグを持ち歩くと説明さ れた。 作業中に水を飲むことは絶対のタブーだ。が、そのタブーを反故 にしなければならないほど百機タンクの設置作業は過酷なのだ。、 ――」》 ☆福島第1原発残骸 ☆化学防護服 デュポン タイベック ソフトウェアIII型 ■安倍首相:核燃サイクル政策「継続して進める」 【毎日新聞】(2013年05月13日) 安倍晋三首相は13日の参院予算委員会で、使用済み核燃料を再 処理する核燃料サイクル政策について「継続して進める」と明言 した。停止中の原発の再稼働は「世界最高レベルの科学的安全基 準の下で判断する。原子力規制委員会が(7月施行の)新基準に 適合すると認めれば進める」と改めて表明した。 首相は使用済み核燃料の処分方法について「世界共通の悩みだ」 と指摘。茂木敏充経済産業相も「直接処分と比べ、(サイクル政 策は)ウラン資源の有効利用、高レベル放射性廃棄物の減容、有 害度の低減の観点から必要だ」として再処理の必要性を強調した。 【小山由宇】 ▼関連して、下村博文文部科学相は14日の閣議後記者会見で、 多数の機器に点検漏れがあった日本原子力研究開発機構の高速増 殖炉「もんじゅ」に対し原子力規制委員会が処分の方針を固めた ことについて、「安全確保の体制強化、再発防止の徹底を厳しく 指導した上で、政府全体のエネルギー計画の中でもんじゅの位置 付けを明確にしていきたい」と述べていますが、“位置付けを明 確に”って、どんな意味かしらん? ★さようなら、もんじゅ君---高速増殖炉が  かたる原発のホントのおはなし さようなら、もんじゅ君---高速増殖炉がかたる原発のホントのおはなし ◆「はやくおしごとやめたいよ…」  「どうしてボク、廃炉になれないの?」 ・ツイッターで大人気!  フォロワー数8万人を超えるJAEA非公式  ゆるキャラもんじゅ君」が、  自らの炉生をせつなく物語る…!  こどもからおとなまで、原発の「ホント」がわかる入門書。 ※本書の売上の一部は東日本大震災義援金にあてられます。 【目次】 ・ごあいさつ 第1章 はやくおしごとやめたいよ---      ナトリウム漏れ事故のこと 第2章 高速増殖炉のしくみ---      ふつうの原発とどうちがう? 第3章 「もんじゅ」のどこがあぶないの?---     ナトリウム・核暴走・プルトニウム 第4章 世界の高速増殖炉のなかまたち---     そして、みんないなくなった 第5章 どうして「もんじゅ」をあきらめないの?---     原子力の歴史と核燃料サイクル計画 第6章 2050年もんじゅの夢---もしも廃炉になれてたら

※3・11から26カ月 避難の福島県民15万3770人※

◆◇◆立ち読みのはしご◆◇◆

高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書)☆(192)

・新書:224ページ ・出版社:集英社 (2012/1/17) ・本書のテーマは、犧牲のシステムとしての福島と沖縄である。 なぜ、福島と沖縄のか。それれは、一九四五年の敗戦以後、今 日までの日本を「敗戦日本」と呼ぶなら、これら二つの地名が、 戦後日本の国家体制に組み込まれた二つの犧牲のシステムを表 しているからだ。 沖縄が戦後日本の犧牲でったこと。それは、沖縄戦という史上 稀に見る過酷な戦闘の戦場にされた沖縄に米軍が居座り、サン フランシスコ講和条約第三条によって、沖縄がその米軍の施政 下に置かれ、一九七二年に日本に復帰して以後も、今なお全国 の米軍専用施設の約七四パーセントが沖縄に集中しているとい う、このことをさしている。 ★[犠牲のシステム 福島・沖縄 (集英社新書) ▼△第二部 沖縄 △▼ ・第五章 沖縄に照射される福島〈20〉・

・だれが犧牲を決定するのか・(下)

自分の住む所に放射生廃棄物の処理施設が来るとしたら
《「――一沖縄の米軍基地問題、そして福島をはじめとする各 地の原発の問題のなかには、こうした犧牲の問題が含まれてい る。 国策を遂行する際に、米軍基地を置くことによって生じる犧牲、 原発を置くことによって生じる犧牲、これらをだれが負うのか。 これらを沖縄の人々に、そして福島の人々に負わせることを、 どうやって正当化できるのか。 多くの日本国民は、沖縄に在日米軍基地の四分の三もが集中し ている事態について、疑問ややましさを感じながらも、では、 自分の住む地域でその負担を共有できるかと問われると、とた んに口ごもってしまう。 同様に、地方の人々に原発のリスクが負わされていることに疑 問ややましさを感じる人でも、では、自分の住むところに原発 が来る、 放射生廃棄物の処理施設が来るなどということにな れば、これに賛成することができない。 しかし、沖縄の米軍基地をめぐる野村浩也氏らの議論が示唆し ているように、憲法の平等原則からすれば、これらの犧牲は一 部に負わせることができるものではなく、犧牲が避けられない としたら、全国民で平等に負担すべきだという議論に道理があ ることは否定することはできないだろう。 ――」》 ☆「美ら海(ちゅらうみ)」名護市辺野古  ■あす本土復帰41年 主権回復、道半ば 【沖縄タイムス】(2013年5月14日) 沖縄が本土に復帰して15日で満41年を迎える。県政最大の 懸案であり続けた米軍基地問題をめぐり、いくつもの日米合意 が交わされたものの、目に見える形での実質的な負担軽減に結 び付いたといえず、いまだ日本国内の74%の米軍専用施設が 偏在する。 米軍絡みの事件・事故は後を絶たず、地元住民の生活より軍の 運用が常に優先されてきた。背景として、米兵の特権的な身分 を保障している日米地位協定の存在が叫ばれて久しい。 1960年に定められて以降、地位協定は一度も改定されず、 米軍による事件・事故の「諸悪の根源」(仲井真弘多知事)と まで批判されているが、日米両政府は「運用改善」で対処し続 けてきた。 くしくも今年4月28日、安倍政権は日本の「主権回復」の日 として式典を開いた。だが、地位協定の矛盾を温存したままで は本来の「主権回復」は道半ばだ。 ▼なお、自民党石破茂幹事長は、米軍普天間飛行場の移設を めぐり、政権方針と異なる「県外移設」を参院選で掲げる構え の党沖縄県連と協議するため、19日に沖縄県を訪問し、翁長 政俊県連会長らと会談する予定だが、どんな会談になるか注目。

◎◎◎万能川柳20周年記念ベスト版◎◎◎

仲畑貴志・編集  毎日新聞社刊 (2011/4/14) 毎日新聞の「仲畑流万能川柳」に寄せられた作品  の中から、秀逸句を厳選したとっておきの1260句。  20周年記念特別企画として糸井重里氏、南伸坊氏  ら爆笑鼎談も収録。泣いて笑って20年。5年半、  264万句から超厳選。日本のつぶやき傑作集。 ★万能川柳20周年記念ベスト版
・お茶漬けでナショナリズムを語る友 兵庫 青空太子
・アドレスを教えてほしい福の神   朝霞 ひざおり
・寝癖まですてきに見えてしまう恋  枚方 なほ空娘

☆★☆≫ 詩歌逍遙 ≪☆★☆

        萩原朔太郎 
・小出新道・
ここに道路の新開せるは 直として市街に通ずるならん。 われこの新道の交路に立てど さびしき四方の地平をきはめず 暗鬱なる日かな 天日家並の軒に低くして 林の雜木まばらに伐られたり。 いかんぞ いかんぞ思惟をかへさん われの叛(そむ)きて行かざる道に 新しき樹木みな伐られたり。             (純情小曲集) ※萩原朔太郎    (1886年11月1日 - 1942年5月11日) 前橋生れ。室生犀星らと「感情」を創刊。第一詩集 「月に吠える」により形式主義自然主義を否定し 新しい叙情を展開し、詩壇に刺激を与えた。また、 体系詩論「詩の原理」をはじめ評論、アフォリズム の業績も大きい。代表詩集「青猫」「蝶を夢む」 「氷島」。 ※Wikipedia:萩原朔太郎

◆◇◆◇『侏儒の言葉西方の人』◆◇◆◇

芥川龍之介著 新潮文庫版》 侏儒の言葉・西方の人 (新潮文庫)侏儒の言葉(遺稿)◇
・「いろは」短歌・
我我の生活に欠くべからざる思想は或は「いろは」短歌に尽きて いるかも知れない。
・運命・
遺伝、境遇、偶然、――我我の運命を司るものは畢竟この三者で ある。自ら喜ぶものは喜んでも善い。しかし他を云々するのは僣 越である。                          〈145〉

☆★☆言えそうで言えない英会話表現☆★☆

☆《自然に言えるようになりたい会話表現》 1 通してください。 2 彼は3人前食べる。 3 私にあまり期待しないで。 4 それは控えめに言ってるんだよ。 5 大切なのはやる気よ。 1 Please let us through. 2 He eats enough for three. 3 Don't expect much from me. 4 That's putting it mildly. 5 It's the motivation that counts. <NHKラジオ 「英語5分間トレーニング」岩村圭南 - 講師> ※この番組の放送は昨年4月1日で終了しています。 Wikipedia:岩村圭南

◎◆◎アートのたのしみ《サー・トーマス・ローレンス》◎◆◎

Miss Murray
〈年不詳 個人蔵〉
☆サー・トーマス・ローレンス
(Sir Thomas Lawrence) 〈1769年4月13日 - 1830年1月7日〉 イギリスの画家。ブリストルで生まれ。父は宿屋を営む。6歳 のころから、客の好きな物を描いてみせ、絵かきの片鱗を見せ ていました。父が事業の失敗したときには、トーマスの絵の才 能が家計を支えました。 絵で身を立てる決意をしたトーマスは、1787年にロンドンへ出 て、ジョシュア・レノルズ創設のロイヤル・アカデミーの生徒 となり、彼の絵はたちまち評判を得て、1791年にはアカデミー 会員となります。ほどなく、ディレッタンティ協会の画家に任 命され、国王ジョージ3世のお抱え画家の地位を獲得します。 1820年からロイヤル・アカデミーの会長職に選ばれた。逝去す るまで会長職を務めました。なお、彼は生涯独身を通しました。
☆Sir Thomas Lawrence『自画像』(1788年)
   〈デンヴァー美術館蔵〉 ◆Sir Thomas Lawrence 【アップロード日: 2009/12/09】

◇◆◇マイ視聴コーナー◇◆◇

☆We Are Not Alone Helen Merrill (アップロード日:2009/10/14) 【We are not alone ってすごくいい曲名ですね、 小学校時代に音楽の授業で習ったあの歌が  Helen Merrill によってまた蘇った気がします。 あの・・・・、「ぼくらはみんな生きている♪  生きているから悲しんだ♪・・・」 『手のひらを太陽に』作詞) やなせたかし   作曲)いずみたくが原曲なんです。 ヘレン・メリルの声が青い空にしみていく感じ がします・・・】 ☆☆ヘレン・メリル ヘレン・メリルHelen Merrill) (1930年7月21日 - ) アメリカの女性ジャズ歌手。本名はイェレナ・アナ ・ミルチェティッチ(Jelena Ana Milcetic)。 その歌声は、しばしば「ニューヨークのため息」と 評される。1960年11月、初の日本公演。1963年にも 日本を訪れ、山本邦山等と共演。1966年頃、UPI 通信社のアジア総局長ドナルド・ブライドンと結婚 し、それを機に日本に移住。後に、ブライドンと離 婚し、1972年にはアメリカに帰国して音楽活動を停 止するが、1976年にはジョン・ルイスとの共演盤 『ジャンゴ』を発表し、活動再開。親日家で、活動 再開後は数多く来日、ライブ・コンサート活動をし ている。 ★Wikipedia:ヘレン・メリル