仙台藩士たちのファッションは江戸ッ子の注目の的

仙台藩士たちのファッションは江戸ッ子の注目の的

【ジャケットは彼らの着る「伊達羽織」が最も
 カッコいいとされボトムは「仙台平」の袴に
 限るともてはやされた。独眼竜政宗のダンデ
 ィズムを伝統的に継承する仙台藩士たちは江
 戸のファッション・リーダーだったのである】

浅田次郎著『ま、いっか。』(67)

第2章 ふるさとと旅(15)
◇独眼竜の子孫たち◇(中)

仙台藩士たちのファッションは江戸ッ子の注目の的

《「 ◆ハッとするピクチャー(Source:REUTERS◇) ◇Bomb blast during an election in Karachi (ATTENTION EDITORS - VISUAL COVERAGE OF SCENES OF INJURY OR DEATH A rescue worker (unseen) checks the body of a child who was killed in a bomb blast, during an election, at the Jinnah hospital morgue in Karachi May 11, 2013. REUTERS/Akhtar Soomro) ともあれ仙台藩士たちが発信するファッショ ンは、江戸ッ子の注目の的であったらしい。 ジャケットは彼らの着る「伊達羽織」が最も カッコいいとされ、ボトムは「仙台平」の袴 に限るともてはやされた。 独眼竜政宗のダンディズムを伝統的に継承す る仙台藩士たちは、江戸のファッション・リ ーダーだったのである。 ひいてはおしゃれな男を「伊達者」と呼ぶよ うになり、悪い意味では外見にこだわること を「ダテ」というようにもなった。 「カッコよさ」は「ダテっぷり」であり、度 のないメガネを「ダテメガネ」というわけで ある。 べつだん政宗が命じたけではあるまい。歴代 の殿様がおしゃれであれば、自然に家来たち も同様になり、仙台藩の藩風とでもいうべき ものになったのであろう。 もうひとつの理由としては、仙台という町の 地理的な利も考えられる。 江戸時代には海運が流通の主幹線であったか ら、仙台は江戸に最も近く、最も大量に物資 が輸送できる地方都市であった。 城下町が海に面しているというのは大藩の条 件であるのだが、金沢も鹿児島も江戸からは 遥かに遠い。 当時の江戸も現代の東京も、人口こそ多いが 実は全国の人々の寄り集う雑居都市である。 だからファッションの発信地でありながら、 きちんと選別されたおしゃれが実現されてい るとは言い難い。 仙台藩士が江戸のファッション・リーダーで あり、今日も仙台市内のデパートやブティッ クが流行のアンテナ・ショプであるという事 実は、いわば歴史の必然なであろう。 仙台市内にはメンズ・ショプが多い。まさし くナポリである。 それだけのお店があるというのは、むろん需 要が多いからであって、その点についてはよ うやくこのごろ本気になり始めた東京のメン ズ・ショプ業界の比であるまい。 」》 ■政宗のセンス、とまれ、ものをご覧あれ。 ☆水玉模様陣羽織 (みずたまもようじんばおり ・伊達家寄贈文化財仙台市博物館所蔵》 羅背板(らせいた)という薄い毛織物で作ら れ、紫の地に大小の赤・青・緑・黄・白の五 色の円形模様を散らした陣羽織。 この模様は地を円形に切り抜き、そこに色を 変えた円形模様をはめこむ切嵌(きりばめ) という技法で表している。円の輪郭は紐でく くっている。 背には大きく伊達家の家紋である竹雀紋(た けにすずめもん)を金糸で刺繍する。斬新な デザインと配色の美しさが際立つ陣羽織であ る。 なお現在は水玉模様の陣羽織として知られる が、明治時代の伊達家の宝物目録には、「紫 地羅背板五色乱星」の名で記されており、水 玉ではなく星とされていた。また伊達政宗所 用と伝えられるが、製作年代が政宗の時代よ り下がる可能性も指摘されている。 ☆山形文様陣羽織《仙台市博物館所蔵》 (やまがたもんようじんばおり) (黒羅紗地裾緋羅紗金銀モール陣羽織) ・伊達家寄贈文化財伊達政宗所用の陣羽織。羅紗という毛織物で 作られている。黒羅紗地(くろらしゃじ)に 金銀のモールの縞をのせ、裾は緋色(ひいろ) の羅紗で山形文様に表している。この山形文 様は、黒と緋の羅紗両方を輪郭がピタリと合 うように切断し、さらに縫い目が見えないよ うに羅紗の切断面をすくって縫い合わせる切 嵌(きりばめ)という技法を用いている。ま た衿(えり)には焦げ茶色の襞(ひだ)飾り がついていた跡があり、当初は南蛮(なんば ん)服飾に見られる襞衿(ひだえり)のよう な形だったと考えられる。桃山時代に流行し た南蛮趣味の色濃い陣羽織である。 ☆伊達政宗画像(だてまさむねがぞう) ・伊達家寄贈文化財仙台市博物館所蔵》 仙台藩初代藩主伊達政宗(1567〜1636)の肖 像画。仙台藩では延宝4年(1676)先祖をま つる堂を建て、政宗らの画像を掛ける慣例が できる。この政宗画像もこの時に制作された ものと考えられる。左上の漢詩政宗の晩年 の自作で、儒学者の酒井伯元(さかいはくげ ん)が書いたもの。画像を描いた狩野安信は 画壇の中心である狩野家を率い、幕府の御用 絵師(ごようえし)として活躍した。 ▼資料参照※仙台市博物館ホームページ ・昭和26年に仙台伊達家から寄贈された資料 群(伊達家寄贈文化財)の保管・展示・研究 のために、仙台城三の丸跡に昭和36年に開館。 昭和61年には同地に全面新築、現在に至る。 延床面積1万800平方メートル、総2階、 鉄筋コンクリート
☆「仙台平」とは:
宮城県仙台市の「合資会社仙台平」だけで作 られる有名な絹織物のことです。 「仙台平」の由来は、江戸時代から始まり、 仙台藩庇護のもと、最高の袴地として全国に 知れ渡り皇室・幕府などへの贈り物として珍 重されてきました。 第二次世界大戦に入り、いくつかの製織工場 が廃業する中、甲田機業の甲田榮佑氏のみが その技術保持のために製作を続け、戦後、精 好仙台平は重要無形文化財の指定を受け、甲 田榮佑氏は重要無形文化財「精好仙台平」技 術保持者、つまり人間国宝として認定されて います(1956年)。 父榮佑氏の死後、息子綏郎氏が仙台平の技術 を継承し、親子2代に渡り重要無形文化財 「精好仙台平」技術保持者として認定されて います(2002年)。 生地はしなやかな独特の風合いを持ち、非常 に堅牢な生地であり皺がつきにくく、絹独特 の光沢と感触の良さが特徴的です。 座ればふっくら、立てば簾(すだれ)のよう にヒダを作ると言われるいる袴です。 ▼仙台平 − 仙臺平トップページ (つづく) (1393dys-873ent) ☆浅田次郎著『ま、いっか。』(集英社文庫) ま、いっか。 (集英社文庫) ・文庫:272ページ ・出版社:集英社 (2012/11/15) ・さあ、身近の「ま、いっか」について、もう一度考え直して みようか、と。花と読書を愛した青春時代の思い出。巷に氾濫 する美人たちへの忠告。旅と買い物の、とっておきの楽しみ方。 老化について、女の誤解と男の本音。豊富な話題をもとに粋な オヤジ目線で語られるのは、江戸っ子らしいキレの良さと滋味 たっぷりの現代考察。著者の生き方の美学がきらりと光る、軽 妙洒脱なエッセイ集。 自分のために笑え。人のために笑え。いつも背筋を伸ばし、鉄 の心を忘れるな。粋に、一途に、ゆうるりと。浅田次郎が贈る、 軽妙洒脱な生き方指南。 ◎浅田次郎。1951年、東京都出身。自衛隊に入隊、除隊後はア パレル業界など様々な職につきながら投稿生活を続け、1991年、 『とられてたまるか!』で、デビュー。悪漢小説作品を経て、 1995年『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞、1997年『鉄 道員』で直木賞、2000年『壬生義士伝』で柴田錬三郎賞、2006 年『お腹召しませ』で中央公論文芸賞司馬遼太郎賞、2008年 『中原の虹』で吉川英治文学賞を、それぞれ受賞。時代小説の 他に『蒼穹の昴』、『中原の虹』などの清朝末期の歴史小説も 含め、映画化、テレビ化された作品も多い。 ・浅田次郎

浅田次郎著『ま、いっか。』(67)

◆◇◆立ち読み◆◇◆

鈴木智彦『ヤクザと原発 福島第一潜入記』文藝春秋刊(225)

・単行本: 256ページ ・出版社:文藝春秋 (2011/12/15) ・原発は儲かる。どでかいシノギだな。電力会社と交渉して、 ゼネコンと話付けて、地元の土建屋に仕事を振る。代紋なしで はとても捌ききれん。原発はタブーの宝庫。裏社会の俺たちに は、打ち出の小槌となるんだよ」。ヤクザが語る衝撃の事実。 日本最大のタブーがいま明かされる! 誰も書けなかった 命 懸けの衝撃ノンフィクション―。 ★ヤクザと原発 福島第一潜入記 ▼△第五章 原発稼業の懲りない面々(43)△▼

・百機タンク・(その2)

日常的に無駄な被曝を強いるメーカーのやり方に不満が
  《「―――サリーの作業が終わると、今度は百機タンクと呼ばれ る汚染水処理タンクの設置に取りかかった。名前の由来は私の担 当する部署の受け持ち分が、ちょうど100機あったことだ。 プラントメーカーの会議に、なぜか私も呼ばれた。 現場監督は会議室で、「これからは休みは一日もない。月火水木 金金だ」と言い放った。 日常的に無駄な被曝を強いるメーカーのやり方に不満が蓄積して いたし、もう目立たないように行動するつもりがなかったので、 横柄な若手の現場監督を選び、突っかかてみた。 「たださえ年配の作業員が多いのに、休みなしだと能率が落ちる んじゃないの?」 「甘いこと言わないでくれる。現場なめてんの?」 言い争うになっている最中、この監督は手帳に挟んでいるICレ コーダーを発見した。 「なんでそんなもの持ってんの?」 「あとあと言った言わないでもめるの嫌だし、俺、原発は初めて なんで、旅館に戻って復習するんです」 このとき、メーカーはおそらく私の怪しさに気づいただろう。 ――」》 ☆福島第1原発残骸 ☆化学防護服 デュポン タイベック ソフトウェアIII型
■福島第1原発に違法派遣 長崎の3社、改善命令
共同通信】(2013年05月11日) 東京電力福島第1原発事故の収束作業に、延べ510人の作業員 を違法に派遣したとして、長崎労働局は11日までに、長崎県内 の派遣業者3社に労働者派遣法に基づく事業改善命令を出した。 改善命令を受けたのは、大和エンジニアリングサービス(長崎県 佐世保市)、創和工業(佐世保市)、アグレス(長崎市)。命令 はアグレスが4月24日付、残る2社が同26日付。労働局によ ると、創和とアグレスは2011年7月1日〜8月9日、自社で 雇用した341人と、他社からの派遣を受けた169人を大和に 作業員として派遣。大和は、全員を福島第1原発の配管工事に派 遣した。 ▼遅きに失する。氷山の一角! ☆福島原発現場監督の遺言 福島原発 現場監督の遺言 ・黒いキノコ雲で放射性物質をまき散らした3号機は、即発臨界 による核爆発説まで出た。欺瞞に満ちた収束宣言に突きつけられ た元現場監督の告発。作業員の大量被曝からずさん工事、インチ キ点検まで、一級配管技能士として福島第一、第二、浜岡、敦賀 など各地の原発工事・点検に従事し、高木仁三郎氏も賞賛した現 場の人・平井憲夫氏が全暴露。原発事故が絶えないのは素人ばか りで職人がいない上に役人が作ったマニュアル通りに工事するか らと重大告発。日本の原発はこんなに危険だ。

※3・11から26カ月 避難の福島県民15万3770人※

◆◇◆立ち読みのはしご◆◇◆

高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書)☆(191)

・新書:224ページ ・出版社:集英社 (2012/1/17) ・本書のテーマは、犧牲のシステムとしての福島と沖縄である。 なぜ、福島と沖縄のか。それれは、一九四五年の敗戦以後、今 日までの日本を「敗戦日本」と呼ぶなら、これら二つの地名が、 戦後日本の国家体制に組み込まれた二つの犧牲のシステムを表 しているからだ。 沖縄が戦後日本の犧牲でったこと。それは、沖縄戦という史上 稀に見る過酷な戦闘の戦場にされた沖縄に米軍が居座り、サン フランシスコ講和条約第三条によって、沖縄がその米軍の施政 下に置かれ、一九七二年に日本に復帰して以後も、今なお全国 の米軍専用施設の約七四パーセントが沖縄に集中しているとい う、このことをさしている。 ★[犠牲のシステム 福島・沖縄 (集英社新書) ▼△第二部 沖縄 △▼ ・第五章 沖縄に照射される福島〈19〉・

・だれが犧牲を決定するのか・(上)

国家為政者は通常、自らを、利益を得る側に組み込んでいる
《「――一久間発言について、さらに考えてみよう。彼の言う 「一〇人の犧牲」すなわち一割の犧牲とは、だれのことなのか。 そして、それをだれが決定するのか。さらに、このような犧牲 の論理を主張し、展開する人々は、自分自身がその犧牲になる ことを想定しているのか、いないのか。 国家の為政者は、自分は当然生き残る九割のほうに属している と思っているのであり、一割の犧牲になるほうに属してとは思 っていない。 まさしく、或る者たち(九割)の利益が他のものたち(一割) の犧牲によって生み出され、維持される。 この場合、国家為政者は通常、自らを、利益を得る側に組み込 んでいるわけだ。 一般の国民・市民のなかにも、このような論理を展開する人が いるとしたら、その人は自分自身をどちらの側に置いているの か。 犧牲になる一割の側なのか、その犧牲によって守られる九割の 側なのか。 九割の側にいるとしたら、その人は、自分が生き残るために犧 牲を他者に押し付ける権利を、いったいどこから得てくるのか。 これら一連の問いが提起される。これらの問いに対して、自分 の回答を正当化できる人がどこかにいるだろうか。 だれが犧牲になるのか。だれを犧牲にするのか。それを決める 権利をだれがもっているのか。 はたして私たちは、国家・国民共同体を維持するために、自分 を犧牲になるべき一割の側に組み込んでいいということを、国 家為政者に認めたことがあるだろうか。 ――」》 ☆「美ら海(ちゅらうみ)」名護市辺野古  ■住民殺害 今も夢に 元米兵のドレイゴさん 沖縄戦体験語る 【琉球新報】(2013年5月13日) 米兵として沖縄戦に参戦したジョー・ドレイゴさん(87)= 米国在住=が10日、インターネット電話「スカイプ」を使い、 ニュージーランドの高校セントビーヅカレッジの授業で、沖縄 戦での体験を語った。 沖縄戦体験の翻訳プロジェクトを進めるニュージーランド在住 のマーク・イーリさん(55)の仲介で今回の授業が実現した。 生徒26人が授業に参加し、真剣な表情でドレイゴさんの話に 聞き入っていた。   ドレイゴさんは戦時中、第6海兵師団に所属していた。イーリ さんによると、ドレイゴさんは沖縄戦から米国に復員するまで の体験を話した。激戦地として知られるシュガーローフの戦い で多くの同僚を亡くしたことや、恩納村で所属部隊が切り込み 隊と勘違いして発砲し、多数の住民を殺害したことを涙を流し ながら語ったという。 →→→☆☆☆記事全文へ続く ▼シュガーローフの戦いとは、1945年(昭和20年)05月12日か ら18日にかけて行われた沖縄戦における戦いのひとつ。この戦 いで海兵隊側は、2,662名の戦死傷者と、1,289名の戦闘疲労患 者を出したとされ、日本側の損害については、この戦闘に限っ た統計がないため明らかではありませんが、数千人と推定され ています。 ☆沖縄シュガーローフの戦い―米海兵隊地獄の7日間  (光人社NF文庫) 沖縄シュガーローフの戦い―米海兵隊地獄の7日間 (光人社NF文庫)

◎◎◎万能川柳20周年記念ベスト版◎◎◎

仲畑貴志・編集  毎日新聞社刊 (2011/4/14) 毎日新聞の「仲畑流万能川柳」に寄せられた作品  の中から、秀逸句を厳選したとっておきの1260句。  20周年記念特別企画として糸井重里氏、南伸坊氏  ら爆笑鼎談も収録。泣いて笑って20年。5年半、  264万句から超厳選。日本のつぶやき傑作集。 ★万能川柳20周年記念ベスト版
・生き生きと漁を手伝う不登校
北九州 小田八千代
・「おとなしいお子さんですね」はほめていない
白河 小亀孫亀
・あっ雪とポッケにしまうハワイの子
越谷 一花

☆★☆≫ 詩歌逍遙 ≪☆★☆

        萩原朔太郎 
・僕等の親分・
     剛毅な慧捷(けいしょう)の視線でもつて もとより不敵の彼れが合圖をした 「やい子分の奴ら!」 そこで子分は突つぱしり 四方に氣をくばり めいめいのやつつける仕事を自覺した。 白晝商館に爆入し 街路に通行の婦人をひつさらつた かれらの事業は奇蹟のやうで まるで禮儀にさへ適つてみえる。 しづかな、雷光の、抹殺する、まるで夢のやうな兇行だから 市街に自動車は平氣ではしり どんな平和だつてみだしはしない。 もとより不敵で豪膽な奴らは ぬけ目のない計畫から 勇敢から、快活から、押へきれない欲情から 自由に空をきる鳥のやうだ。 見ろ 見ろ 一團の襲撃するところ 意志と理性に照らされ やくざの祕密はひつぺがされ どこでも偶像はたたきわられる。 剛毅な慧捷の瞳でもつて 僕等の親分が合圖をする。 僕等は卑怯でみすぼらしく 生き甲斐もない無頼漢であるが 僕等の親分を信ずるとき 僕等の生活は充血する 仲間のみさげはてた奴らまでが いつぽんぶつこみ 拔きつれ まつすぐ喧嘩の、繩ばりの、讐敵(かたき)の修羅場へたたき込む。 僕等の親分は自由の人で 青空を行く鷹のやうだ。 もとより大膽不敵な奴で 計畫し、遂行し、豫言し、思考し、創見する。 かれは生活を創造する。 親分!                        (蝶を夢む) ※萩原朔太郎    (1886年11月1日 - 1942年5月11日) 前橋生れ。室生犀星らと「感情」を創刊。第一詩集 「月に吠える」により形式主義自然主義を否定し 新しい叙情を展開し、詩壇に刺激を与えた。また、 体系詩論「詩の原理」をはじめ評論、アフォリズム の業績も大きい。代表詩集「青猫」「蝶を夢む」 「氷島」。 ※Wikipedia:萩原朔太郎

◆◇◆◇『侏儒の言葉西方の人』◆◇◆◇

芥川龍之介著 新潮文庫版》 侏儒の言葉・西方の人 (新潮文庫)侏儒の言葉(遺稿)◇
・革命・
革命の上に革命を加えよ。然らば我等は今日よりも合理的に娑婆 苦を嘗むることを得べし。
・死・
    マインレンデルは頗る正確に死の魅力を記述している。実際我我 は何かの拍子に死の魅力を感じたが最後、容易にその圏外に逃れ ることは出来ない。 のみならず同心円をめぐるようにじりじり死の前へ歩み寄るので ある。 〈144〉

☆★☆言えそうで言えない英会話表現☆★☆

☆《自然に言えるようになりたい会話表現》 1 僕は汗かきなんだ。 2 今は言葉にならないわ。 3 万事休すだな。 4 それが心配なのよ。 5 まだ注文変えられますか。 1 I tend to perspire a lot. 2 Words fail me right now. 3 I guess the jig is up. 4 That's what I'm worried about. 5 Can I still change my order? <NHKラジオ 「英語5分間トレーニング」岩村圭南 - 講師> ※この番組の放送は昨年4月1日で終了しています。 Wikipedia:岩村圭南

◎◆◎アートのたのしみ《サー・トーマス・ローレンス》◎◆◎

Antonio Canova Marchese dIstria
〈年不詳 個人蔵〉
☆サー・トーマス・ローレンス
(Sir Thomas Lawrence) 〈1769年4月13日 - 1830年1月7日〉 イギリスの画家。ブリストルで生まれ。父は宿屋を営む。6歳 のころから、客の好きな物を描いてみせ、絵かきの片鱗を見せ ていました。父が事業の失敗したときには、トーマスの絵の才 能が家計を支えました。 絵で身を立てる決意をしたトーマスは、1787年にロンドンへ出 て、ジョシュア・レノルズ創設のロイヤル・アカデミーの生徒 となり、彼の絵はたちまち評判を得て、1791年にはアカデミー 会員となります。ほどなく、ディレッタンティ協会の画家に任 命され、国王ジョージ3世のお抱え画家の地位を獲得します。 1820年からロイヤル・アカデミーの会長職に選ばれた。逝去す るまで会長職を務めました。なお、彼は生涯独身を通しました。
☆Sir Thomas Lawrence『自画像』(1788年)
   〈デンヴァー美術館蔵〉 ◆Sir Thomas Lawrence 【アップロード日: 2009/12/09】

◇◆◇マイ視聴コーナー◇◆◇

Helen Merrill with Clifford Brown / You'd Be So Nice To Come Home To (アップロード日:2009/10/11) 【great song written by Cole Porter】 ☆☆ヘレン・メリル ヘレン・メリルHelen Merrill) (1930年7月21日 - ) アメリカの女性ジャズ歌手。本名はイェレナ・アナ ・ミルチェティッチ(Jelena Ana Milcetic)。 その歌声は、しばしば「ニューヨークのため息」と 評される。1960年11月、初の日本公演。1963年にも 日本を訪れ、山本邦山等と共演。1966年頃、UPI 通信社のアジア総局長ドナルド・ブライドンと結婚 し、それを機に日本に移住。後に、ブライドンと離 婚し、1972年にはアメリカに帰国して音楽活動を停 止するが、1976年にはジョン・ルイスとの共演盤 『ジャンゴ』を発表し、活動再開。親日家で、活動 再開後は数多く来日、ライブ・コンサート活動をし ている。 ★Wikipedia:ヘレン・メリル