寒くなればなるほど今日的な基準の美男美女が多くなる

寒くなればなるほど今日的な基準の美男美女が多くなる

【寒い季節は、実は美しさを担保するための絶
 好の機会なのではあるまいか。寒い思いをす
 ればするほど、お肌は白くなり、鼻は高くな
 り、背も伸びるかもしれぬ。夏は冷房の利い
 た部屋にちぢこまって暮らし、冬こそ、外に
 出て活動する、という美容法はどうであろう】

浅田次郎著『ま、いっか。』(65)

第2章 ふるさとと旅(13)
◇黒髪のシャラポワ◇(下)

寒くなればなるほど今日的な基準の美男美女が多くなる

《「 ◆ハッとするピクチャー(Source:REUTERS◇) ◇Met Costume Gala (Madonna arrives at the Metropolitan Museum of Art Costume Institute Benefit celebrating the opening of "PUNK: Chaos to Couture" in New York, May 6, 2013. REUTERS/Carlo Allegri) そうこう考えると、べつに学者がきちんと説 明したわけではないが、寒くなればなるほど 今日的な基準でいう美男美女が多くなるのは たしかである。 そこで、はたしてこの持説はわが国にも援用 できるかどうか、と考えた。 私見ではあるが、東北地方には美人が多い。 ことに青森、秋田、岩手の三県は、むろん全 員ではないがおしなべて、色白、目パッチリ、 鼻筋が通って背も高い。気温の低さと紫外線 量の少なさであろうと思う。 北海道と仙台がこの例に洩れてしまう理由は、 前者が全国各地からの人々の集合地であり、 後者が実はさほど寒くないからであろうか。 ただし、仙台市民の名誉のために言っておく と、この街はすばらしくおしゃれである。理 由は語れば長くなるので、また日を改めて述 べようと思う。 さてかくかくしかじか考えるにつけ、一般的 に女性が苦手とされるこれからの寒い季節は、 実は美しさを担保するための絶好の機会なの ではあるまいか。 寒い思いをすればするほどお肌は白くなり、 鼻は高くなり、背も伸びるかもしれぬ。夏は 冷房の利いた部屋にちぢこまって暮らし、冬 こそ外に出て活動する、という美容法はどう であろう。 あんがい理に適っていると思うのだが、ちな みに子供のころからそのパターンで生活して いる私は、べつだん背が高くなく、色が白い わけでも、鼻筋が通っているわけでもない。   (『MAQUIA』二〇〇七年十二月号) 」》 ■きょうの《東北地方には美人が多い》は、 青森県育ちの私にとっては、こそばゆいです。 そうかな?と思ってしまう。その地域のいる 者にとっては、美人が多いとは実感しにくい のです。 それはそれとして、ここで、同郷のよしみで、 弘前市出身の女優・長内美那子さんをご紹介 したいと思います。 楚々とした役柄が似合う女優さんです。なん だか女優さんらしくありません。 1965年(昭和40年)、「愛染かつら」の 高石かつ枝役で脚光を浴び、一躍人気女優に なりました。その後、テレビドラマ、映画、 舞台とさまざまなジャンルで活躍しました。 「べつに演劇に魅せられたわけじゃなく、青 森弁を直したくて青年座に入ったんです」と。 共立女子大3年のときに劇団青年座に参加。 1967年、同じ俳優の宗方勝巳さんと結婚。 出産後、家庭と仕事の両立が難しくなり、青 年座を退団しています。夫君は俳優の宗方勝 己さん。 主な出演作品に、テレビでは、「家族」「水 戸黄門」「土曜スペシャル」「華麗なる一族」   「冬空に月は輝く」「日本のふるさとを訪ね て」「素顔のままで」など。 映画では、「ごーやちゃんぷる」「苺の破片」  「男の紋章」「オーロラの下で」など、地味 なのは、ぬぐえませんね。 長内美那子さんの活動で注目されるのは、恒 例となっている“夏の会 女優たちによる朗 読劇『夏の雲は忘れない』”です。全国公演 を続けています。 日色ともゑ、大原ますみ、川口敦子、神保共 子、寺田路恵の皆さんが出演しています。戦 争の悲しみ、苦しみを朗読するという形で伝 えています。 ☆長内美那子さん ☆『夏の雲は忘れない』 ☆1979 サントリー オレンジエード (アップロード日: 2011/01/28) 【SUNTORY グレープフルーツエード ade 長内美那子】 (つづく) (1388dys-871ent) ☆浅田次郎著『ま、いっか。』(集英社文庫) ま、いっか。 (集英社文庫) ・文庫:272ページ ・出版社:集英社 (2012/11/15) ・さあ、身近の「ま、いっか」について、もう一度考え直して みようか、と。花と読書を愛した青春時代の思い出。巷に氾濫 する美人たちへの忠告。旅と買い物の、とっておきの楽しみ方。 老化について、女の誤解と男の本音。豊富な話題をもとに粋な オヤジ目線で語られるのは、江戸っ子らしいキレの良さと滋味 たっぷりの現代考察。著者の生き方の美学がきらりと光る、軽 妙洒脱なエッセイ集。 自分のために笑え。人のために笑え。いつも背筋を伸ばし、鉄 の心を忘れるな。粋に、一途に、ゆうるりと。浅田次郎が贈る、 軽妙洒脱な生き方指南。 ◎浅田次郎。1951年、東京都出身。自衛隊に入隊、除隊後はア パレル業界など様々な職につきながら投稿生活を続け、1991年、 『とられてたまるか!』で、デビュー。悪漢小説作品を経て、 1995年『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞、1997年『鉄 道員』で直木賞、2000年『壬生義士伝』で柴田錬三郎賞、2006 年『お腹召しませ』で中央公論文芸賞司馬遼太郎賞、2008年 『中原の虹』で吉川英治文学賞を、それぞれ受賞。時代小説の 他に『蒼穹の昴』、『中原の虹』などの清朝末期の歴史小説も 含め、映画化、テレビ化された作品も多い。 ・浅田次郎

浅田次郎著『ま、いっか。』(65)

◆◇◆立ち読み◆◇◆

鈴木智彦『ヤクザと原発 福島第一潜入記』文藝春秋刊(223)

・単行本: 256ページ ・出版社:文藝春秋 (2011/12/15) ・原発は儲かる。どでかいシノギだな。電力会社と交渉して、 ゼネコンと話付けて、地元の土建屋に仕事を振る。代紋なしで はとても捌ききれん。原発はタブーの宝庫。裏社会の俺たちに は、打ち出の小槌となるんだよ」。ヤクザが語る衝撃の事実。 日本最大のタブーがいま明かされる! 誰も書けなかった 命 懸けの衝撃ノンフィクション―。 ★ヤクザと原発 福島第一潜入記 ▼△第五章 原発稼業の懲りない面々(41)△▼

・汚染水で被曝・(その3)

作業員が被曝限度を超え、翌日から現場に入れなくなった
  《「―――まだ20代の責任者に詰め寄ったが、「もともと決ま っているシフトだからかえられねぇんす」と言われた。 頭に血が上った私は傍にあった段ボールを蹴飛ばし、「ふざける なよ。意味ないじゃん。これで現場から出されたらどうするんだ よ。必要のない人間まで現場に出すことねぇだろう」と毒づいた。 私の部署の被曝程度は25ミリシーベルトである。ホールボディ カウンターを使って内部被曝を計測するのは月に1回で、その分 を考慮し20ミリが管理値で、これを超えると放射線業務停止例 が出され、1Fに入れない。 この日の作業で0・6メリだから、普段の10倍だ。被曝量が多 いと分かっていたからであろう、この日の作業は2度に分けて行 われた。 シェルターでの休憩中、作業員の一人がAPD(線量計)を置い ていったのは、限度を超え現場に出られなくなるのが嫌だったか らだ。 一度目の作業は彼もAPDを携帯していた。まったく被曝してい ないと不正がばれるため、シェルターに戻り、その数値をみた後、 休憩時間にAPDを自分の鞄に隠したのだ。 「絶対やばいと思った。(APD)置いていってよかった」 が、彼の努力は報われなった。この日の作業でフクシマ50のメ ンバーや多くの熟練工など、初期の段階から1F入りしていた作 業員のかなりが被曝限度を超え、翌日から現場に入れなくなった のだ。 APDを置いて行った彼もその一人だった。私に八つ当たりされ た責任者もまた現場を離れることになった。 ――」》 ☆福島第1原発残骸 ☆化学防護服 デュポン タイベック ソフトウェアIII型
福島第1原発汚染水問題 東電、5月にも海への放水開始へ
【FNN】(2013年05月07日) 福島第1原発の汚染水問題で、東京電力は、増え続ける汚染水の 要因になっている地下水の水質を確認し、5月にも海への放水を 始めることがわかった。原発の敷地内から出た水が、計画的に海 に放出されるのは、これが初めて。 福島第1原発では、1日あたり400トンもの地下水が、山側か ら建屋に向かって流れ込むことで、汚染水増加の要因となってい る。このため東京電力は、地下水をくみ上げる井戸を12カ所設 置し、海への放水を検討してきた。 その結果、設置工事が完了した4つの井戸では、いずれも放射性 物質が検出限界値未満だったことから、13日に漁業関係者への 説明を行ったうえで、5月中にも海への放水を行うことが、関係 者の話でわかった。 相馬市の漁業関係者は、 「(放射性物質が)ゼロであっても、絶対、風評被害があるから」、 「(地下水は)たまっていくばかりだから、最終的に水を流すしか  ないんだろうけど」などと語った。 東京電力は、すでに国の関係機関への説明を行っているが、地下 水の海への放水は、放射性物質が検出限界値未満であることや、 地元の理解が前提としている。(05/07 12:21 福島テレビ) ☆福島第1原発汚染水問題 東電、5月にも海への放水開始へ  (13/05/07) (公開日: 2013/05/06) 【福島第1原発の汚染水問題で、東京電力は、増え続ける  汚染水の要因になっている地下水の水質を確認し、5月  にも海への放水を始めることがわかった。  http://www.fnn-news.com/news/headline...】 ▼「日本の最高水準の技術に強い関心が寄せれた」と述べ、日本 の日本の原発の安全性を強調したのは、クイズ、誰でしょう?
★☆★福島民報のニュースサイト
◆◇◆立ち読みのはしご◆◇◆

高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書)☆(189)

・新書:224ページ ・出版社:集英社 (2012/1/17) ・本書のテーマは、犧牲のシステムとしての福島と沖縄である。 なぜ、福島と沖縄のか。それれは、一九四五年の敗戦以後、今 日までの日本を「敗戦日本」と呼ぶなら、これら二つの地名が、 戦後日本の国家体制に組み込まれた二つの犧牲のシステムを表 しているからだ。 沖縄が戦後日本の犧牲でったこと。それは、沖縄戦という史上 稀に見る過酷な戦闘の戦場にされた沖縄に米軍が居座り、サン フランシスコ講和条約第三条によって、沖縄がその米軍の施政 下に置かれ、一九七二年に日本に復帰して以後も、今なお全国 の米軍専用施設の約七四パーセントが沖縄に集中しているとい う、このことをさしている。 ★[犠牲のシステム 福島・沖縄 (集英社新書) ▼△第二部 沖縄 △▼ ・第五章 沖縄に照射される福島〈17〉・

・犧牲となるのはだれか・(中)

九〇人の国民を救うために一〇人の犧牲はやむを得ない
《「――一しかし、問題はまず、その犧牲をだれが負わなけれ ばならないのか、ということだ。 この問題に関して想起したいのは、久間章生防衛大臣の発言 である。 久間氏が橋本内閣と安倍内閣防衛庁長官を歴任し、安倍内閣 のときに防衛庁防衛省に改組されて初代の防衛大臣を務めた 政治家だが、防衛大臣在任中、長崎への原爆は「しょうがなか った」発言は、被爆者をはじめ多くの人々の反発を呼んで辞任 した。 この人が有事法制をめぐる龍谷大学の山内敏弘教授との対論で、 次のよう発言しているのである(発言当時の久間氏の肩書きは 自民党政調会長代理)。 「国家の安全のため個人の命を差し出すなどとは言わない。が、 九〇人の国民を救うために一〇人の犧牲はやむを得ないとの判 断はあり得る」(朝日新聞、二〇〇三年六月三〇日)。 「九〇人の国民を救うために一〇人の犧牲はやむを得ないとの 判断はあり得る」。これはまさしく、犧牲の論理を正当化する 発言である。 防衛庁長官防衛大臣を歴任した為政者が、このような発言を するということは、彼らの頭の中では常にこういう計算が働い ていることを示唆しているとも思われる。 ――」》 ☆「美ら海(ちゅらうみ)」名護市辺野古 
■米兵住居侵入「想像しても恐ろしい」 防衛局に抗議
琉球新報】(2013年5月8日) ・米兵の住居侵入に抗議する東門沖縄市長 (左から2人目)らに頭を下げる武田博史 沖縄防衛局長=7日、嘉手納町の防衛局 5日に米軍嘉手納基地所属の海軍曹長が住居侵入の疑いで逮捕 されたことを受け、県内では7日、県や関係市町村、政党など による関係機関への抗議要請が相次いだ。   嘉手納基地へのオスプレイ配備計画撤回を申し入れるため沖縄 防衛局を訪れた沖縄市東門美津子市長は、住居侵入事件に触 れ「安全なはずの自宅で就寝中に見知らぬ男が入り込むとは想 像しただけで恐ろしい。仕方がないでは済まされない」と憤っ た。 対応した武田博史局長は「事件事故の再発防止に努力する立場 として被害者や県民に大変申し訳ない」と謝罪した。 県は7日、防衛局に対し電話で「より一層の綱紀粛正と再発防 止に努めるよう隊員の教育を徹底してほしい」と強く申し入れ た。基地対策課によると、6日には在沖米海軍に対しても電話 で要請した。 一方、外務省や同省沖縄事務所も米海軍と在日米国大使館に電 話で抗議した。   公明党県本部も同日、防衛局と外務省沖縄事務所を相次いで訪 ね、米軍人・軍属らへの教育、実効性のある再発防止策や日米 地位協定の抜本的改定などを求めた。糸洲朝則県本代表は「事 件・事故が後を絶たず、再発防止が徹底されていない」と指摘 した。 ▼沖縄の声を聞け! (4・28「主権回復の日」祝典 抗議集会にて) 「米軍は人権無視で本当に訓練も演習もやりたい放題」 「不平等な日米地位協定沖縄県民でなく米兵を守っている。  これで主権国家と言えるか」

◎◎◎万能川柳20周年記念ベスト版◎◎◎

仲畑貴志・編集  毎日新聞社刊 (2011/4/14) 毎日新聞の「仲畑流万能川柳」に寄せられた作品  の中から、秀逸句を厳選したとっておきの1260句。  20周年記念特別企画として糸井重里氏、南伸坊氏  ら爆笑鼎談も収録。泣いて笑って20年。5年半、  264万句から超厳選。日本のつぶやき傑作集。 ★万能川柳20周年記念ベスト版
・サンタです品名忘れ子に電話     京田辺 うわの空
・食べながら腰が浮いてるバイキング  大津 金田三蔵
・死んでからメール来てたらどうしよう 蓮田 はんなりや0

☆★☆≫ 詩歌逍遙 ≪☆★☆

        萩原朔太郎 
・鷄・
しののめきたるまへ 家家の戸の外で鳴いてゐるのは鷄です 聲をばながくふるはして さむしい田舎の自然からよびあげる母の聲です とをてくう、とをるもう、とをるもう。 朝のつめたい臥床の中で 私のたましひは羽ばたきをする この雨戸の隙間からみれば よもの景色はあかるくかがやいてゐるやうです されどもしののめきたるまへ 私の臥床にしのびこむひとつの憂愁 けぶれる木木の梢をこえ 遠い田舎の自然からよびあげる鷄のこゑです とをてくう、とをるもう、とをるもう。 戀びとよ 戀びとよ 有明のつめたい障子のかげに 私はかぐ ほのかなる菊のにほひを 病みたる心靈のにほひのやうに かすかにくされゆく白菊のはなのにほひを 戀びとよ 戀びとよ。 しののめきたるまへ 私の心は墓場のかげをさまよひあるく ああ なにものか 私をよぶ苦しきひとつの焦燥 このうすい紅いろの空氣にはたへられない 戀びとよ 母上よ 早くきてともしびの光を消してよ 私はきく 遠い地角のはてを吹く大風のひびきを とをてくう、とをるもう、とをるもう。                   (青猫) ※萩原朔太郎    (1886年11月1日 - 1942年5月11日) 前橋生れ。室生犀星らと「感情」を創刊。第一詩集 「月に吠える」により形式主義自然主義を否定し 新しい叙情を展開し、詩壇に刺激を与えた。また、 体系詩論「詩の原理」をはじめ評論、アフォリズム の業績も大きい。代表詩集「青猫」「蝶を夢む」 「氷島」。 ※Wikipedia:萩原朔太郎

◆◇◆◇『侏儒の言葉西方の人』◆◇◆◇

芥川龍之介著 新潮文庫版》 侏儒の言葉・西方の人 (新潮文庫)侏儒の言葉(遺稿)◇
・或老練家・
彼はさすがに老練家だった。醜聞を起さぬ時でなければ、恋愛さ え滅多にしたことはない。 〈142〉

☆★☆言えそうで言えない英会話表現☆★☆

☆《自然に言えるようになりたい会話表現》 1 その通りだよ。 2 どれを選んだらいいか決められない。 3 それはうまい言い方だよ。 4 彼は人に好かれる性格よね。 5 自信過剰になってはいけない。 1 You can take that to the bank. 2 I can't decide which to which. 3 I couldn't have said it better. 4 He has an amiable disposition. 5 Don't be overconfidente. <NHKラジオ 「英語5分間トレーニング」岩村圭南 - 講師> ※この番組の放送は昨年4月1日で終了しています。 Wikipedia:岩村圭南

◎◆◎アートのたのしみ《サー・トーマス・ローレンス》◎◆◎

Pinkie (Sarah Barrett Moulton)
〈年不詳 個人蔵〉
☆サー・トーマス・ローレンス
(Sir Thomas Lawrence) 〈1769年4月13日 - 1830年1月7日〉 イギリスの画家。ブリストルで生まれ。父は宿屋を営む。6歳 のころから、客の好きな物を描いてみせ、絵かきの片鱗を見せ ていました。父が事業の失敗したときには、トーマスの絵の才 能が家計を支えました。 絵で身を立てる決意をしたトーマスは、1787年にロンドンへ出 て、ジョシュア・レノルズ創設のロイヤル・アカデミーの生徒 となり、彼の絵はたちまち評判を得て、1791年にはアカデミー 会員となります。ほどなく、ディレッタンティ協会の画家に任 命され、国王ジョージ3世のお抱え画家の地位を獲得します。 1820年からロイヤル・アカデミーの会長職に選ばれた。逝去す るまで会長職を務めました。なお、彼は生涯独身を通しました。
☆Sir Thomas Lawrence『自画像』(1788年)
   〈デンヴァー美術館蔵〉 ◆Sir Thomas Lawrence 【アップロード日: 2009/12/09】

◇◆◇マイ視聴コーナー◇◆◇

Helen Merrill ヘレン・メリル / Autumn Leaves (アップロード日: 2012/11/02) 【1994 Live in New York City (Town Hall)  Helen Merrill ヘレン・メリル(vo)】 ☆☆ヘレン・メリル ヘレン・メリルHelen Merrill) (1930年7月21日 - ) アメリカの女性ジャズ歌手。本名はイェレナ・アナ ・ミルチェティッチ(Jelena Ana Milcetic)。 その歌声は、しばしば「ニューヨークのため息」と 評される。1960年11月、初の日本公演。1963年にも 日本を訪れ、山本邦山等と共演。1966年頃、UPI 通信社のアジア総局長ドナルド・ブライドンと結婚 し、それを機に日本に移住。後に、ブライドンと離 婚し、1972年にはアメリカに帰国して音楽活動を停 止するが、1976年にはジョン・ルイスとの共演盤 『ジャンゴ』を発表し、活動再開。親日家で、活動 再開後は数多く来日、ライブ・コンサート活動をし ている。 ★Wikipedia:ヘレン・メリル