鍛えこまれた声は凄味を感じる(下)

{義務教育では、国語の時間は共通語以外の文法は
 “ペケ”です。オーバーに言うなら、文部省が指
 導する「国語」という“法律”のような規則がで
 きているのです。
 しかし、声は多分に主観的で、「NHKのアナウ
 ンサーの声はよくて、森進一さんの声は悪い。だ
 から、NHKのアナウンサーのような声でしゃべ
 りなさい」という教育はできません}
 

『「声」は見た目よりものをいう』〈著者〉竹内 一郎(23)

<第2章>声は「見た目」以上にものをいう
鍛えこまれた声は凄味を感じる(上)

◆◇◆続々・立ち読み失礼◆◇◆

☆佐高 信『原発文化人50人斬り』毎日新聞社

「第4章 メディアと原発危険な関係」より
▼・メディアと原発危険な関係(27)▼
一切報道されない検察による「犯罪行為」(下)
なぜ新聞やテレビは検察批判をしないのか
●検察批判が出来ない、検察と「共生関係」にある記者クラブ

◆◇◆立ち読みのはしご◆◇◆

佐藤栄佐久 (著) 『福島原発の真実 』(平凡社新書) ☆

▼・第2章 まぼろし核燃料サイクル(16)▼
プルサーマル実施方針が伝えらる(その1)
●以前はやらないとしていたプルサーマルを行うとう政策変更
『「声」は見た目よりものをいう』〈著者〉竹内一郎(23)

<第2章>声は「見た目」以上にものをいう

鍛えこまれた声は凄味を感じる(下)
「《 歌声なら、クラシックの歌声に、美しさのエ ッセンスを見いだすことはできるでしょう。 ですが、それはあくまで“基本”という但し 書きが付いてのことです。 大衆が好む流行歌には、別のよさがあります。 浪曲、小唄、演歌……これらのジャンルでは “よい声の持ち主”は決してクラシックの概 念では括れません。 どういう声であれ、“生きるため”という目 的をもって鍛えこまれたそれには、魅力が伴 うものです。 魚屋や八百屋の「さあ、いらっしゃい。いら っしゃい」「まいど、まいど、まいどーぃ! 安いよ、安いよ」。 こんな掛け声を道行く人に向かって毎日発し ていくうちに、その人固有の魅力が備わって いきます。 声はさまざまな価値観を認め合い、尊重し合 って共存しています。情報伝達の手段として は、多様性を認められている、幸運な要素だ ったと言えます。 声とセットとなっている言葉は、国家という 概念が生まれた途端、文法が整備され、規則 が厳しくなって、“規格品以外は使ってはな らぬ”という風潮が生まれました。 義務教育では、国語の時間は共通語以外の文 法は“ペケ”です。オーバーに言うなら、文 部省が指導する「国語」という“法律”のよ うな規則ができているのです。 しかし、声は多分に主観的で、「NHKのア ナウンサーの声はよくて、森進一さんの声は 悪い。だから、NHKのアナウンサーのよう な声でしゃべりなさい」という教育はできま せん。 声紋は機械で解析することはできても、それ が声のすべて(相手に与える魅力も含めて) を表しているわけではないのです。 現代科学で“線引き”できなかったから、声 は統制されなくて済んだともいえるのです。 そのお陰で、いろいろな魅力、多様な価値観 が認められる世界が保存されています。 声の幸運を感じます。 」》
女の岬 森進一
(mayonakanoaijinn0731 さんが 2011/08/27 にアップロード) (つづく) (Y148-61) ◎たしかに、生活感の滲みでる掛け声には、 いも言われぬ暖かさがあります。戦前、まだ 浅草に住んでいたころ、鋳掛屋(いかけや) さんがよくやってきたのを、懐かしく想い出 します。当時は、未就学児なので、仕事の内 容はまだよくわかっていないのですが、なん だか気分はラッキーカムカムなのです。 「えー、鋳掛けぃっ。えー、鋳掛けぃっ。  えー鋳掛はーぃ」 なお、鋳掛屋さんとは、鍋釜の底に穴があい たのを塞ぐのを商売にしてる人です。 ラッキーなことに、「江戸売り声」漫談家宮田章司さんの売り声を、動画で聴くことが できます。文明の利器に大感激です。
宮田章司"江戸売り声"〜第4回芸協らくごまつり
(MrHbento さんが 2010/10/23 にアップロード) 【新宿の高層ビル街に響く宮田章司師の"江戸売り声"】
江戸売り声百景 (岩波アクティブ新書) [新書]
江戸売り声百景 (岩波アクティブ新書)

『「声」は見た目よりものをいう』

単行本: 179ページ 出版社: 潮出版社 (2011/5/6) 〔目次〕 <はじめに> <第1章>できる人は「声」が違う!
<第2章>声は「見た目」以上にものをいう
<第3章>いい声をつくるヒント <第4章>さらに表現を豊かにするために <終章>〈声〉の世界を楽しもう 〔著者〕 ☆竹内 一郎(たけうち・いちろう)☆ 演出家・劇作家・漫画原作者。 1956年福岡県生まれ。横浜国立大学教育学部心理科卒業。 九州大学博士(比較社会文化)。九州大谷短期大学助教授を へて宝塚大学教授。『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』 でサントリー学芸賞さいふうめいの筆名で発表した『戯曲 ・星に願いを』で文化庁舞台芸術創作奨励賞佳作、『哲也  雀聖と呼ばれた男』で講談社漫画賞を受賞。非言語コミュ ニケーションを説いた『人は見た目が9割』が110万部の ベストセラーとなった。

『「声」は見た目よりものをいう』〈著者〉竹内一郎(23)

◆◇◆続々・立ち読み失礼◆◇◆

☆佐高 信『原発文化人50人斬り』毎日新聞社

「第4章 メディアと原発危険な関係」より
▼・メディアと原発危険な関係(27)▼
一切報道されない検察による「犯罪行為」(下)
なぜ新聞やテレビは検察批判をしないのか
●検察批判が出来ない、検察と「共生関係」にある記者クラブ
《「――その日、当該検事は女性秘書に、 「午後一時四五分に来て下さい」 と出頭を命じたという。 抗議書には、「何点か確認したいことがある」旨を告げて来庁を依 頼した、とあるが、コートも羽織らず、ランチバッグひとつで検察 庁に出かけた彼女は、それから、ほぼ一〇時間帰れなかった。 いや、帰されなかった。夕刻、彼女が保育園で持っている三歳と五 歳の子どもの迎えの手配をしたいと哀願したのに、 担当検事の民野健治は、 「なに言っちゃてんの。そんなに人生、甘くないでしょう」 と言い放ったという。 これに対しての「抗議」はこうである。 「夕刻、供述人から、子供の迎えもあるので帰りたい旨申出があっ たので、当該検事が、『家族の誰かに代わりに迎えに行ってもらう ことはできませんか』と尋ねたところ、供述人が夫に電話をかけ、 その結果、子供の迎えの都合がついたことから事情聴取が続けられ たものであり、その際、供述人が子供の迎えだけは行かせてほしい 旨発言したり、取り乱したことはない」 しかし、最初に携帯電話の電源を切るように命じていること。繰り 返し要請した弁護士への連絡も、解放直前の午後一〇時半になって 初めて許さえれていることなどからも、この抗議のウソは明らかだ ろう。上杉は書く。 「取り調べ後、病院で診察を受けた女性秘書には診断書が出され、 いまだに精神的ショックから立ち直れず、完全な職場復帰を果たせ ないでいる」と。 彼女は検事から、こう怒鳴り続けられたのである。 「いいんだよっ! とにかく、本当のことを言えばいいんだよ!」 そして、上杉は次のような疑問を発する。 なぜ、この検察の「犯罪行為」を報じる新聞やテレビは皆無なのか、 と。ワイドショーなど飛びつきそうなネタなのに、なぜ、無視なの か? それは、このニュースを報じると検察批判になり、検察と「共生関 係」にある記者クラブ自体の自己否定になってしまうからだ、と自 ら絵解きする。 そのため、この国では、この「事件」が存在しないことになってし まっているのである。――》 原発文化人50人斬り ◎これでは、検察には、依然として、特高(とっこう)のDNAが 生きているかのようだ。戦前の特別高等警察。主要府県警の中に設 置されていた秘密警察。各県の警察部長を経由して地方長官の指揮 を受ける一般の警察と異なり、内務省から直接に指揮を受ける特殊 な警察組織。被疑者の自白を引き出すために暴力を伴う過酷な尋問、 拷問を加えた記録が数多く残されています。当時、一般での略称、 特高警察(とっこうけいさつ)や特高(とっこう)の名は、身の毛 もよだつ畏怖の対象でありました。1932年に岩田義道、1933年には 小林多喜二に、過酷な尋問を行なって死亡させました。 ///////////////////////////////////////////////////////////

◆◇◆立ち読みのはしご◆◇◆

佐藤栄佐久 (著) 『福島原発の真実 』(平凡社新書) ☆

《国が操る「原発全体主義政策」の病根を知り尽くした  前知事がそのすべてを告発》(表紙帯から)
▼・第2章 まぼろし核燃料サイクル(16)▼
プルサーマル実施方針が伝えらる(その1)
●以前はやらないとしていたプルサーマルを行うとう政策変更
《「――「三県申し入れ」から約一年が過ぎた九七年二月一四日、 三人の知事は通産省に呼ばれた。そこで、佐藤信二通産相と近岡理 一郎科学時術庁長官から原子力政策の見直しを告げられた。それは、 現在の軽水炉原発)でプルトニウム燃料を燃やす「プルサーマル 計画」の積極推進を閣議決定した、というものだった。 以前に一度、福島県に対しプルサーマル計画について打診があった が、断った経緯があったし、日本の原子力政策として以前はやらな いとしていたプルサーマルを行う、という政策変更である。 「もんじゅ事故」で行き場がなくなったプルトニウムを、各地原発 で消費することにする「国策の変更」であり、結局これが、「三県 知事申し入れ」への答えなのだ。 当時の橋本内閣は、それまで原子力委員会に丸投げしてきた原子力 政策を「円卓会議」で透明化し、政治によるコントロールを効かせ ようという政策決定の変更を行った。 プルサーマルへの政策変更についても、本来は必要のない閣議を通 すことによって、「国策」としての内閣のコントロールを利かせよ うとする努力だと評価ができる。 しかし、プルサーマルは、解を求めるのは大変難しい問題だ。 ――》 福島原発の真実 (平凡社新書)原子力や電力の問題の裏側には、巨大な利権が存在し、それをめ ぐって自民党が蠢いていたので、決して、利権を手放すことはなく、 すべての意志決定は、利権保持のためにと、成されていました。だ から、根本的な問題は、なにひとつ、改変されませんでした。そし て、これほどの原発事故を招いても、自民党原発を推移してきた 責任を総括せず、現政権を批判するばかりです。 2009年9月のこと、自民党が総選挙で惨敗し、野党に転落してから 行われた総裁選挙に際して、河野太郎氏が出馬しようと、推薦人の 依頼に回ったとき、総裁選挙に出馬するなら、「原子力に関しては 発言しない」という条件をつけられたそうです。河野太郎氏は、か ねてより、「反核燃料サイクル」を発言し続けていました。「自民 党なのに河野太郎は反原発なのか」「あなたは共産党なのか」と嘲 り(あざけり)を受けていました。信じられます? 利権の呪縛だ。
河野太郎の指摘 「日本のエネルギー政策」シリーズ1 原発
(KonoTaroGomame さんが 2009/08/12 にアップロード) 【現在の日本のエネルギー政策には、様々な問題があります。  その具体的な事例を、河野太郎が指摘していくシリーズで  す。第1弾は「原子力発電」がテーマです】

≪都会歳時記≫

[都市・現代の視座1000句]句集 古家 元「文學の森」刊]
〔新年〕 二枚ほど旅でだす気の賀状かな
http://shop.bungak.com/products/detail.php?product_id=143

≫平成万葉集

読売新聞社 (編集)、「万葉のこころを未来へ」推進委員会 (編集)
甘藍のかたく巻きたる手応えをぱぴぷぺぽんと割るこの朝
和田智子(64歳)茨木県 ※甘藍(かんらん)キャベツ            

◆◇◆悪魔の辞典より◆◇◆

アンブローズ ビアス (著)、Ambrose Bierce (原著)、 西川 正身 (翻訳)
領事(consul n.)
アメリカの政治では、人民からある官職を与えてもらうこと ができなかった代わりに、故国をあとにすることという条件 付きで、時の政府から官職を与えられた者を指して言う。 新編 悪魔の辞典 (岩波文庫)

☆★☆言えそうで言えない英会話表現☆★☆

ここに立っているだけで汗ばんでくる。
I'm sweating just standing here.
<NHKラジオ 「英語5分間トレーニング」岩村圭南 講師>

◎◆◎アートのたのしみ《英国篇》◎◆◎

エドワード・バーン=ジョーンズ“プシュケの結婚”
(1873-78年・ブリュセル王立美術館) ◆プシュケ(Psyche)とは、ギリシア神話に登場する人間の 娘の名。プシューケー、プシケーとも表記される。プシュケ は愛の神エロスとの結婚話で知れれています。 ◇サー・エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ (Sir Edward Coley Burne-Jones, 1833年8月28日 - 1898年6月17日) パーミンガム生まれ。イギリスの美術家。ラファエル前派と密接な関 係を持つデザイナーでラファエル前派をイギリス画壇の主流に押し上 げ、彼自身も数々の精巧で美しい芸術作品を作り上げました。フィリ ップ・バーン=ジョーンズの父。 1853年、オックスフォード大学のエクセター・カレッジで神学を学ぶ。 そこでウィリアム・モリスと出会い、2人とも将来牧師になるつもり でしたが、ラスキンの思想や中世ゴシックの建築・美術に興味を抱き、 別の道へ進んでいくことに。1855年、ロンドンでロセッティやラファ エル前派の作品に接し、その年の夏、バーン=ジョーンズとウィリア ム・モリスはフランスを旅行し、そこで、決定的に牧師の道を辞め、 芸術の道を選択しました。バーン=ジョーンズはバーン=ジョーンズ は画家、モリスは建築家に。
Sir Edward Coley Burne-Jones(スライド・ショー)
(inesvigo さんが 2010/02/15 にアップロード) 【Sir Edward Coley Burne-Jones (Birmingham, 28 de agosto de  1833 Londres, 17 de junio de 1898) fue un artista y  disenador ingles asociado con la Hermandad Prerrafaelita,  y principal responsable de atraer a los prerrafaelitas a  la corriente principal del arte britanico y, al tiempo,  produciendo algunas de las mas exquisitas y bellas obras  de arte de la epoca.】