ところ変われば品変わる
テクスト『日本語教のすすめ』（９）
＜estelの記録帳 風景 カイトサーフィン＞
乳房はいつから恥部になったか
まだまだ世界には、お互いに気がついて いない微妙な違い、見逃されている驚く べき問題が、世界の国々にたくさん存在 しています。 通りいっぺんの観光旅行や、短期間のビ ジネス旅行では、その国の内情はなかな か見えてきません。 鈴木孝夫さんの場合は、文化人類学的な 視点からモノゴトを観察しているので、 その土地の文化の襞（ひだ）まで見抜く ことが出来るのだと思います。 世界中には、同じ羞恥心といっても、文 化が違えば、〈誰に対して何時なのか〉 とか、〈身体部位の何処が問題となるの か〉など、それぞれに様々な違いがあり ます。 いい例が、戦後の日本に起きた女性の乳 房に対する社会の反応の急激な変化です。 いまの日本では女性の乳房はみだりに他 人に見せる身体部位ではない、いやそれ どころか性的な意味合いの強い恥部、つ まり催淫帯（eroginic zone)の一つにな っています。 このような乳房に対する感覚は、戦後ア メリカ文化の影響によって生まれた非常 に歴史的に新しいものなのです。 民族的な事実として、日本文化の基層に は、東南アジアや太平洋諸島に通じる要 素がいろいろと見受けられますが、女性 が人前で上半身を露出することは、つい、 このあいだまで、少しも恥ずかしことで はありませんでした。 むしろ高温多湿の気候風土条件のもとで は、身体的にも望ましことでさえあった のです。西欧キリスト教文化の影響
近代になってこれらの地域のほとんどは 欧米諸国の植民地として、西欧キリスト 教文化の強力な影響下に置かれました。 その結果、女性が乳房を露出する現地民 の風俗は、キリスト教の精神に反するも のとして異なる文化伝統に対してまった く無知無理解の宣教師たちの攻撃の的と なり、どこでも女性たちは無理矢理に何 かしらの服を着せられてしまったのでし た。ハワイ諸島のムームーなどはその一 つです。 日本が米国との戦争に負けると、国内に どっとアメリカの風俗や文化が流れ込み はじめると、戦前の日本では、絶対にし てはいけないこと、例えば、歩きながら もの食べることが、あっという間に拡が ってしまいました。 そうして、アメリカ人のように、ソフト クリームを舐め、チュウインガムを噛み ながら歩く姿が普通に見られるようにな りました。 その反面、昔から何の問題もなかった伝 統的な風俗や習慣が、基本的には欧米的 でないという理由からもっともらしい理 屈をつけられて姿を消えていきました。 伝統的な日本の文化では、女性の胸や大 きな乳房を性的な意味で賞揚することは ありませんでした。 その一つの理由に着物を着るとき胸が大 きいと帯が巧く締められないことがあり ました。ですから、乳房が大きすぎると きは、晒しを体に巻いて体型を整える必 要さえありました。 ところが、戦後の日本人の目には、体の 線を大胆に強調するアメリカ女性のスタ イルが新鮮に映り、同時に乳房の形が良 くて大きいことが称揚されるようになり ました。 さらには、乳房が性的含意を持つ身体部 位、つまり催淫帯であるという西洋式の 見方まで取り入れられたのです。（続く） (N94-4)『日本語教のすすめ』 新書: 252ページ 出版社: 新潮社 (2009/10) 発売日： 2009/10 ＜目次＞ 第1章 日本語は誤解されている(日本語ってどんな言語 漢字の読みはなぜややこしいのか ラジオ型言語とテレビ型言語) 第2章 言語が違えば文化も変わる(虹にはいくつの色があるのか 太陽は世界のどこでも赤いのか 蛾と鯨が同じ理由 文化によって異なる羞恥心) 第3章 言葉に秘められた奥深い世界(天狗の鼻は「長い」ではなく「高い」 形容詞の中身はなに? 江戸時代、「日本酒」はなかった) 第4章 日本語に人称代名詞は存在しない(身内の呼び方の方程式 日本語の人称代名詞を巡る問題 指示語と自己中心語のしくみ 「人称」の本質は何か) 第5章 日本語に対する考えを改めよう(日本人のもつ相手不在の外国語観 日本語教のすすめ) 鈴木 孝夫略歴： 1926(大正15)年、東京生まれ。慶応義塾 大学文学部英文科卒。慶応義塾大学名誉教授。
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