『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』5

加藤陽子さんが高校生に語りました」5

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3章 第一次世界大戦 日本が抱いた主観的な挫折

変わらなければ国が亡びる
私でも、手の届きそうな近い時期に入り ました。困ったことは、恥知らずにも、 戦争の世紀はますますエキサイティング な時代に突入します。 ここで、ちょっと、お断りしておきます。 私は、『それでも、日本人は「戦争」を 選んだ』を要約しようなどと、大逸れた 企みをトライしているわけではありませ ん。 この本の命題に惚れていて、私なりの戦 争への胸の”おさまり”を得たくて読ん でいます。雑感覚書ていどですので悪し からずにお願いします。 なぜ、人間は、いつまでも戦争を止める ことが出来ないのかを知りたくて、本書 に縋っています。しかし、戦争というも のには、”人間の業”の見本市を見せら れているようです。 この戦争では、ヨーロッパで長い伝統を 持っていた三つの王朝が崩壊しています。 すなわち、ロシアのロマノフ朝、ドイツ のホーエンツォレルン朝、そして、オー ストリアのハプスブルグ帝国です。世界 が大きく変革しました。 興味深いのは、第一次大戦には、人間と してスケールの大きい人物が多く登場し てくることです。いまの言葉でいうと、 キャラが立っている人たちが目白押しに 登壇してきます。 それに比べて、現代の、世界のリーダー たちの多くは、小物ですね。
多くの国家改造論が登場する
さて、第一次世界大戦の犠牲者数は、世 界全体で戦死者約一千万人、戦傷者約二 千万人をかぞえ、そして、日本の戦死傷 者一千二百五十人と段違いに少ない。 日本は、主戦場から遠く離れていて、戦 争への関与が少なく、受けた影響も少な いと思っていました。 しかし、日本が受けた影響は、第二次世 界大戦の次か、もしくは、第二次大戦と 同じくらい大きかった。ヘイ、という感 じですね。 日本の戦争は、1914年(大正3年)八月 に始まって、実際上には、三か月後の十 一月ぐらいで終わっています。日本の死 者の数も驚くほど少ない。 そうなんですが、この戦争の結果、日本 において、たくさんの国家改造論が登場 してきて、とにかく、日本は変わらなけ れば国が亡びる、とまでの危機感を社会 に訴える人々や集団がたくさん生まれて きたのです。 それも中途半端じゃない。次は、1919年 (大正八年)以降、ワラワラと出てきた 改造団体といわれる団体の主張を集めた ものです。 1普通選挙 2身分的差別の撤廃 3官僚外交の打破 4民本的政治組織の樹立 5労働組合の公認 6国民生活の保障 7税制の社会的改革 8形式教育の解散 9新領土・朝鮮・台湾、南洋諸島統治の刷新 10宮内省の粛清 11既成政党の改造 なぜ、こうも前進的なのか。 1919年のパリ講和会議に参加して、パリ に滞在して、当時、最先端の情報に接し た人たちがいた。全権とともにパリに赴 いた外交官た軍人以外に、実業家、少壮 政治家、ジャーナリスト、などが日本に 帰ってきて、「日本はだめだ、日本は終 わった」との危機感から掲げた運動目標 だったのです。(続く) (N67-4)
それでも、日本人は「戦争」を選んだ

それでも、日本人は「戦争」を選んだ

<目次> 序章 日本近現代史を考える 1章 日清戦争 ―「侵略・被侵略」では見えてこないもの 2章 日露戦争 ―朝鮮か満州か、それが問題 3章 第一次世界大戦 ―日本が抱いた主観的な挫折 4章 満州事変と日中戦争 ―日本切腹、中国介錯論 5章 太平洋戦争 ―戦死者の死に場所を教えられなかった国
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