松林宗恵さんのお人柄の思い出

今月、映画監督の松林宗恵さんの訃報に接し
て、古い記憶の奥底から、松林宗恵さんのお
姿が、鮮明によみがえりました。生前、お会
いできたことに 深く感謝しています。

30代のころ、銀座6丁目の合同酒精ビルの会
議室で開かれる井上信一先生がひきいる歎異
抄研究会の月例会に参加していました。ある
とき、例会に松林宗恵さんが、講師としてお
見えになりました。だれ一人、お伴もなく、
ご自身で、8ミリ映写機の設置され、たんた
んとフィルムをまわされました。私は、その
もの静かな振る舞いに見とれていました。

そのとき、未熟な私は、ご高名な映画監督な
のだから、いくらプライベイトなことでも、
映写機の設定などは、アシスタントにやらせ
るのが普通だと思っていました。そこで、本
当に偉い人の何たるを知りました。その後、
私からの年賀状に、毛筆の賀状を頂くように
なりました。先生の賀状は、私の宝ものです。

映画監督の松林宗恵(まつばやし・しゅうえ)
さんが8月15日、心不全のため東京都文京区
の病院で逝去されました。おん歳89歳。島根
県出身。葬儀・告別式は近親者で行われ、
お別れ会が9月10日午後1時半から東京都世
田谷区成城1の4の1、東宝スタジオで開か
れます。

1952年、上原謙さん主演の「東京のえくぼ
で映画監督としてデビュー。森繁久弥さんや
小林桂樹さん、三木のり平さんらが絶妙な掛
け合いを見せ、50年代後半から70年代初めに
かけて、人気を誇った喜劇「社長」シリーズ
の多くを監督しました。

第2次世界大戦中の海軍での体験を反映させ
た「人間魚雷回天」や「連合艦隊」といった
戦争映画にも取り組み、評価されました。柔
道の山下泰裕さんをモデルにした「山下少年
物語」や「関白宣言」などの映画を監督した
ほか、テレビドラマも演出しました。

思えば思うほど」、大きな人物でした。

ここで、井上信一先生について少し触れさせ
て頂きます。井上信一先生は日銀に入行され、
その後、宮崎銀行の頭取を歴任された実業家
です。学生時代より親鸞歎異抄を唯一の指
標、心の糧として歩んで来られ、仏教振興財
団理事長の職にも就かれ、在家仏教者として、
経済人として、仏教を実践されました方です。
(N15)