加賀正太郎と大山崎山荘

NHK日曜美術館のアートシーン」で、
アサヒビール大山崎山荘美術館の紹介が
あった。

山荘を建てた加賀正太郎の才知をこの目で確
かめ、20世紀冒頭にヨーロッパに遊学し、そ
のエッセンスを具現化した建造物をこの手で
触れて見たい衝動に駆られた。

アサヒビール大山崎山荘美術館」は 天王
山の中腹に位置し、木津・宇治・桂川の三川
を望む絶好も場所にある。。この美術館は、
大正から昭和初期にかけて、加賀正太郎によ
って建築された「大山崎山荘」を本館として、
建築家・安藤忠雄設計による新館(1995年竣
工)とともに公開している。

本館では、民藝運動に参加した河井𥶡次郎、
濱田庄司、バーナード・リーチの作品を中心
に、古陶磁、家具、染色作品などを、新館で
は、印象派のクロード・モネの代表作として
知られる『睡蓮』の連作を展示している。
また、約5500坪の敷地面積を有する庭園には
数多くの植物が配され、四季折々に眼を楽し
ませてくれる。

加賀正太郎とは一体誰か。

加賀正太郎は、明治21年大阪市東区今橋生
まれ、その恵まれた経済力と卓越した才能に
よって様々な分野で手腕を発揮した。

加賀家は江戸時代から両替商を営み明治に入
ると証券業にも参入する。正太郎の父市太郎
は辣腕実業家として知られ、彼によって加賀
商店は業界一流となった。しかし、多忙の余
り病を得て47歳で死去。まだ12歳の正太郎は
家督を相続するが、母の決断で、彼が成人す
るまで店は閉めることになった。東京高等商
業学校に入学した。在学中、見聞を広めるた
めに欧州遊学を決行。その旅行中、かねてよ
り計画していたヨーロッパ・アルプスのユン
グフラウの登頂に成功している。日本人とし
て初の快挙であった。また、イギリス滞在中
にはキュー・ガーデンなどでの蘭栽培を見学
し、深い感銘を受ける。

帰国した正太郎は明治44年に学業を終え、大
阪に帰り、父の死で中断していた家業を11年
ぶりに再開した。同時に大山崎の地に広大な
土地を買い求め、大正3年には、欧州旅行で
得た見聞をもとに、自らの設計・管理で山荘
の庭園作りに取かかった。それが大山崎山荘
である。

また、正太郎は、山荘内の温室にて蘭栽培に
手をそめ、世界各地から取り寄せた蘭の品種
の栽培や交配を進め、その数は世界的新種を
含めて11400種に達した。当時、大山崎山荘
は西日本の蘭栽培のメッカとなり、学術名に
“オオヤマザキ”と名付けられた蘭も多い。
また、ゴルフの才能も人並みはずれ、茨木カ
ンツリークラブのコースチェアマンとして活
躍した。一方、実業家としても証券業の他、
山林経営、土地開発そしてニッカ・ウィスキ
ーの創始者の一人として大きな業績を残した。

富の力を思い知る。

さて、今夕 (19:00〜20:00) 22(土)は、
たまがわ花火大会と世田谷 多摩川花火大会
(川崎)が同時開催で、どちらも、6000発が
打ち上げられる。(N12)