愛する猫に死なれた女と不幸を餌にして生きる小さな神獣

愛する猫に死なれた女と不幸を餌にして生きる小さな神獣

【こうして原稿を書いている間にも、七匹の猫
 たちはいぎたなく寝こけている。こいつら何
 を考えているのかと思えば、腹立たしくなる
 ことしばしばあるが、彼らのもたらしてくれ
 る安息は、いったいどうしたことであろうか。
 どうやら彼らが私の不幸や苦悩をずっと食べ
 続けてくれていることはたしかなようである】

浅田次郎『君は嘘つきだから、小説家にでもなればいい』(24)

第三章 骨のかけら(8)
◇安息――何故私は(動物もの」を書けぬのか◇(下)

愛する猫に死なれた女と不幸を餌にして生きる小さな神獣

《「 ◇Landslides hit Hiroshima 【Japan Self-Defense Force (JSDF) soldiers search for survivors in the rain at a site where a landslide swept through a residential area at Asaminami ward in Hiroshima, western Japan, August 22, 2014. REUTERS/Toru Hanai】 ◇ 【A local resident stands on rubble at a site where a landslide swept through a residential area at Asaminami ward in Hiroshima, western Japan, August 21, 2014. REUTERS/Toru Hanai】 ◇ 【A dog takes a rest under a destroyed house at a site where a landslide swept through a residential area at Asaminami ward in Hiroshima, western Japan, August 20, 2014. REUTERS/Toru Hanai】          唯一の例外は、短篇集『姫椿』に収録されて いる「シエ〈けもの偏に解〉」という一篇の みであろう。 愛する猫に死なれた女と、不幸を餌にして生 きる小さな神獣「?」の、奇妙な生活を描い た物語である。 現実には存在しえない動物だから書けたのだ と思う。それにしたところで、こういうかわ いそうな小説は二度と書くまい、と考えた記 憶はある。 不本意にも「お涙作家」などと呼ばれている が、ことほどさように読者を泣かせようと思 ったためしはなく、むろん書きながら自分が 悲しい気分になることもない。 たぶん人間に対しては相当に薄情なのだろう。 しかし、動物となるともうダメなのである。 私は折にふれて自作を読み返すという妙な反 省癖があるのだが、この「?」は執筆以来二 度と読んでいない唯一の作品で、まさか失敗 作とまで言わぬにしろ、いまだに書いたこと を悔やんでいる。 もしや将来、素材に枯渇して忌避を踏み始め るのではなかろうか、と怖れる。あるいは思 うところあって、ある日卒然と「動物もの」 を書き始めるかもしれぬ。いやな予感である。 こうして原稿を書いている間にも、七匹の猫 たちはいぎたなく寝こけている。 こいつら何を考えているのかと思えば、腹立 たしくなることしばしばあるが、彼らのもた らしてくれる安息は、いったいどうしたこと であろうか。 どうやら彼らが私の不幸や苦悩を、ずっと食 べ続けてくれていることはたしかなようであ る。 かくかくしかじか、人間が格別にすぐれた生 き物であるなどと、私にはどうしても思えな い。(『婦人公論』二〇〇八年八月号) 」》 ■《どうやら彼らが私の不幸や苦悩を、ずっ と食べ続けてくれていることはたしかなよう である》 このように、猫に不幸や苦悩を食べてもらっ ていたと思われる一人の画家がいます。 藤田嗣治レオナール・フジタ(1886-1968) は、モディリアーニシャガールなどと並ん で、エコール・ド・パリを代表する画家の一 人で、フランスでもっとも有名な日本人画家 です。 藤田嗣治の周りには常に猫がいました。自画 像を描くときも、たいてい、猫が一緒に描か れています。また、猫についてのデッサンや スケッチも数多く残しています。 フランスからレジオン・ドヌール勲章、ベル ギーからレオポルド勲章を贈られていた藤田 ですが、第二次大戦の戦禍を逃れて日本へ帰 国します。 そして、、藤田嗣治は、こんな理不尽な出来 事に見舞われます。 日本でも戦争が勃発、「従軍画家」の仕事に 従事します。 海外での生活で日々「日本人」であることを 意識していた藤田は、少しでも自国に貢献し たいと考えていました。 彼が描いた戦争画の『アッツ島玉砕』は、凄 惨苛酷で、リアルで決して美化された状景で はありません。藤田自身「国のために戦う一 兵卒と同じ心境で描いた」と述べています。 この作品の前で涙を流し、手を合わせる人が 絶えなかったという事実は、戦争画を芸術の 域にまで高めている証左だと思います。 そして、日本は敗戦を迎えます。 日本美術会の書記長内田巌らが、藤田の従 軍画家としての戦争責任を糾弾するのです。 敗戦の翌年の初夏。 藤田嗣治の家に内田巌が訪ねてきました。 内田は戦時中からの画友でした。 「まことに申し上げにくいことですが」と、 いつになく真剣な顔つき。 なんと、戦争画家の第一人者だった藤田に、 戦犯画家の代表として罪を引き受けてもら いたい、と言うではないか。 藤田は唖然として、内田の顔を見た。 戦後、内田巌は、日本美術界の平和と民主 主義を標榜する画家として脚光を浴びてい たのです。 しかし、内田とて聖戦美術展の重鎮・藤島 武二のもとで戦争画を描いていたのです。 内田が言うには、戦争犯罪者の摘発が旧日 本の軍人や政治家のワクを超えて美術界に も及んできたので「、その罪を藤田が一身 に負ってくれ、と。 さすがの藤田も腹に据えかね、毅然と答え ました。 「責任をとれというならとりましょう。ス  ケッチ用の鉛筆一本持たせてくれれば、  いつでも監獄に入りましょう」 ヨーロッパでの成功に対する嫉妬も重なり、 戦争協力の中心人物として強い非難にさら された藤田は、再度フランスへ渡り、そこ で帰化します。 その後、二度と日本の地を踏むことはあり ませんでした。彼が残した言葉は強烈です。 「日本画壇は、早く国際水準に到達して下  さい」 結果的には、藤田を巻き込んだ「戦争責任 の追及」騒動は、GHQ(占領軍)からの 指示ではなく、GHQに追及されるのを怖 れた日本人の側から起こったものでした。 日本の軍国体制の解体を急ぐGHQは、旧 軍人・政治家等の戦争責任を追及するのが 最大の急務であって、美術界の戦争責任ま で問う意向はなかったのす。 パリの異邦人・藤田のよき友は、猫であっ たと思います。 藤田は人に媚びず、わが道を行く藤田自身 の投影を猫に見ていたのかもしれません。 ★藤田嗣治 藤田嗣治アッツ島玉砕』 ★Later years of Leonard Fujita レオナール・フジタの晩年 (2012/12/29 に公開) 【It is a program that I covered the loved painter  of the yearning and later years of Leonard Fujita.  私が大好きな憧れの画家、藤田嗣治の晩年を取材した番組です】  つづく (1858dys-1090ent) (1859dys-1090ent休)火 ★浅田次郎『君は嘘つきだから、小説家にでもなればいい』 君は嘘つきだから、小説家にでもなればいい ・文庫本:277ページ ・出版社:文藝春秋(2011/12) ・「本を読むより外で遊べ」と説教され、「まさか小説家にな ろうとしているわけじゃなかろうな」と非難された少年時代。 生き別れた母を想い、ともに暮らす家族に尽くし、週末ごとの 競馬を傍らに全身全霊で小説の神様に向き合ってきた人気作家 が、胸熱くする人生に景色を、深く洒脱に紡ぐ。名人の酔いし れる傑作エッセイ集。 ◎浅田次郎(あさだ・じろう)。1951(昭和26)年、東京生ま れ。著書に「プリズンホテル」「地下鉄(メトロ)に乗って」 (第16回吉川英治文学新人賞)「蒼穹の昴」「天切り松闇がた り」「勇気凛凛ルリの色」「鉄道員(ぽっぽや)」(第117回 直木賞)「霞町物語」「天国までの百マイル」「壬生義士伝」 (第13回柴田錬三郎賞)「王妃の館」「椿山課長の七日間」 「五郎治殿御始末」「輪違屋糸里」「お腹召しませ」(第1回 中央公論文芸書、第10回司馬遼太郎賞)「中原の虹」(第42回 吉川英治文学賞)「一刀斎夢録」「赤猫異聞」「かわいい自分 には旅をさせよ」「一路」「黒書院の六兵衛」などがある。 ・浅田次郎

浅田次郎『君は嘘つきだから、小説家にでもなればいい』(24)

―――――◆◎◆◎立ち読み◎◆◎◆―――――

★『秘密法で戦争準備・原発推進』〈71〉 

【―市民が主権者である社会を否定する秘密保護法】
・単行本:157ページ ・出版社:創史社 (2013/11) ・内 容:市民が主権者である社会を否定する秘密保護法、      市民生活を破壊し、民主主義さえ崩壊させかね      ない秘密法に反対。 ・著 者:海渡雄一  1981年弁護士登録。30年間にわたって、もんじゅ訴訟、 六ヶ所村核燃料サイクル施設訴訟、浜岡原発訴訟、大間 原発訴訟など原子力に関する訴訟多数を担当。1990年か ら日弁連公害対策環境保全委員会委員、2010年4月から 12年5月まで日弁連事務総長。3.11後福島原発告訴団、 東京電力株主代表訴訟、東海第2原発訴訟などの弁護を  務め、脱原発弁護団全国連絡会共同代表、脱原発法制定 全国ネットワーク事務局長。 ★秘密法で戦争準備・原発推進―市民が主権者である社会を否定する秘密保護法

★第六 秘密法でどんな行為が処罰されるのか(8)

四 早期処罰と厳罰が法案の鍵(その2)

・国際的な批判を受けている日本の刑務所 http://www.jinken.ne.jp/other/kaido/ 《「――この法律はジャーナリストや市民運動をやっている人も 対象になる。 ジャーナリスト生命を賭けて仕事をする人はいるだろうが、自分 の人生、命を賭けて、刑務所に一〇年間入る覚悟ができるのか。 私は、長く刑務所内の人権問題に関わってきた。虐待によって死 亡するような例は確かに減ってきている。しかし、日本の刑務所 には、医師がいない刑務所もある。 今までなら、決定的な重要な情報をつかんだら、ジャーナリスト 生命を賭けてその情報を明らかにして、クビになれば、その後は フリーでもやればできた。 しかし、これからはこの法律によって長期投獄を覚悟しなければ ならなくなる。長期投獄覚悟で、政府の秘密を暴く記事が書ける かどうかが問われている。 ――」》 ※※※ ・2013/12/06:深夜の国会採決 ☆特定秘密保護法参議院・特別委員会で強行採決された瞬間 (公開日: 2013/12/05) 【自民 https://ssl.jimin.jp/m/contact  公明 https://www.komei.or.jp/contact/  みんな https://www.your-party.jp/contact/mai...  維新 https://j-ishin.jp/contact/  委員長 中川 雅治 自民  http://www.nakagawa-masaharu.jp/conta... (FAX)03−6551−0904 (TEL)03−6550−0904  ツイッター https://twitter.com/Nakagawa参院国家安全保障特別委員会で、特定秘密保 護法案の採決をめぐり、中川雅治委員長(左端) の周りでもみあう委員。右端は森雅子・特定秘 密保護法案担当相=2013年12月5日 ※参院国家安全保障特別委員会中川雅治委員長 (参議院議員 自由民主党公認東京都選挙区選出) ◆◆歴史に残る暴挙を子どものために忘れない!◆◆ ※※※

◆発症割合地域差なし 子どもの甲状腺がん 県内0・028〜0・036%◆

福島民報】(2014/08/25 08:31) 【図】 東京電力福島第一原発事故発生時に18歳以下だった37万人を 対象に実施している県の甲状腺検査で、6月末までに受診した約 30万人のうち甲状腺がんやがんの疑いと診断された人は104 人になった。原発周辺で避難措置などが取られた13市町村、浜 通り、中通り会津地方に分けた地域別の発症割合が初めて公表 され、0・028〜0・036%と地域差はほとんど見られなか った。   福島市のコラッセふくしまで24日に開かれた県「県民健康調査」 検討委員会で、県が県内をほぼ一巡した検査結果を報告した。細 胞や血液などの精密な2次検査を受け、甲状腺がんと確定した子 どもは57人で3月末時点より7人増えた。1人は手術の結果、 良性だった。「がんの疑い」は46人で7人増えた。検査を受け た子どものうち、がんの疑いを含めた地域別の発症割合は【図】 の通り。原発周辺の13市町村は0・034%で、原発周辺を除 いた浜通りいわき市・相馬市・新地町)は0・035%、中通 りは0・036%と地域差は見られなかった。 原発から遠い会津地方は0・028%とやや低めだが、福島医大 は「2次検査を終えた子どもが他の地域に比べ少ないため」と説 明し、検査完了後はさらに差が縮まるとの考えを示唆した。   検討委の星北斗座長(県医師会常任理事)は甲状腺がんの発症割 合に地域差がないことから、現時点で原発事故との因果関係は考 えにくいとの従来通りの見解を示した。一方で「詳細な分析が必 要」とも述べ、年齢や検査時期、被ばく量との関係など、さまざ まな条件を加味して今後も調べる考えを示した。》

◆「吉田調書」9月公開を発表 政府、非公開方針を転換◆

【47NEWS>共同ニュース】(2014/08/25 12:58) ・記者会見で「吉田調書」を9月のでき  るだけ早い時期に公開すると発表する 菅官房長官=25日午前、首相官邸   菅義偉官房長官は25日の記者会見で、東京電力福島第1原発事 故をめぐり、政府の事故調査・検証委員会が同原発吉田昌郎元 所長=昨年7月死去=から当時の状況を聞いた「聴取結果書(吉 田調書)」について、非公開としていたこれまでの方針を転換し、 9月のできるだけ早い時期に公開すると発表した。 政府は吉田氏以外の調書についても、本人の同意が得られたもの から順次公開する準備を進めている。菅氏も「他の記録と照らし 合わせが可能になる」と述べており、事故対応の検証が進みそう だ。》

◆◇◆立ち読みのはしご◆◇◆

鎌田慧、斉藤光政『ルポ 下北核半島――原発と基地と人々』☆

・単行本(ソフトカバー): 224ページ ・出版社: 岩波書店 (2011/8/31) ・原子力発電所・核燃料再処理工場・ウラン濃縮工場・ MOX燃料加工工場・高レベル放射性廃棄物貯蔵施設・ 使用済核燃料の中間貯蔵施設、さらに核戦争の最前線基 地として機能する米軍三沢基地。『六ヶ所村の記録』か ら20年、原子力と軍事に侵食される本州最北の地を見 つづけてきた二人のジャーナリストによる報告。 使用済み核燃料が大量に集積される、もっとも危険な原 子力施設 ― 六ヶ所再処理工場原子力センターが姿を 現しつつあるそこは、かつて、農民の土地だった。マグ ロ漁でしられる本州最北端の大間町では、危険と隣合わ せの「最新鋭」原発が建設されている。 その建設地のど真ん中で、建設に抗い、自然エネルギー で暮らす母と娘がいる。原子力開発・核燃サイクルとい う国策のもとに押し潰されてきた人々の暮らしと土地、 そして矜持。フクシマ原発災害を出来させた構造と同じ 光景が広がる下北核半島の現況をリポートする。 ★ルポ 下北核半島――原発と基地と人々 ▼△ルポ 下北核半島――原発と基地と人々△▼(212)
・第6章 軍事化される半島――謎秘める自衛隊基地軍(16)
大小の「海の耳」(その4)

偵察飛行中のP2Vがソ連戦闘機からミサイルを発射された

《「――実際、少しでも多くの情報を取ろうと宗谷海峡上で 粘る八戸基地の哨戒機と、南サハリンから迎撃をかけるソ連 戦闘機との間で静かなる火花が散っていた。それは、時とし て“衝突事件”にもつながった。 偵察飛行中のP2Vがソ連戦闘機から空対空ミサイルを発射 されたことがある、というのだ。海自と米軍関係者の話を総 合すると、“事件”が起きたのは一九七六年四月のことで、 ミサイルは命中せず、搭乗員一二人と機体に被害はなかった という。 “事件”を知る一人は「P2Vが八戸基地に帰投後、録音し てきたソ連軍の交信を解析した時点で初めて、ミサイルで撃 たれたことが分かったといいます。飛行中は気づかなかった らしのです。搭乗員は領海侵犯をしなかたったと言うし、攻 撃された理由についに分からずじまいでした」と話す。 ――」》

◆新基地許さぬ 辺野古で大規模集会◆

沖縄タイムス】(2014年8月23日 15:26) ・新基地建設に抗議し、こぶしを突き上げる 集会参加者=23日午後3時2分、名護市 辺野古キャンプ・シュワブゲート前 米軍普天間飛行場返還問題で政府による名護市辺野古海上 作業開始に対し、新基地建設中止を求める「みんなでいこう 辺野古へ。止めよう新基地建設!8・23県民大行動」が、 23日午後2時から、キャンプ・シュワブの第1ゲート前で 開かれ、約3600人(主催者発表)が参加した。 集会では呼び掛け人の国会議員や市民団体の代表、稲嶺進名 護市長らが次々とマイクを握り、政府の対応を、民意を無視 した問答無用の強行姿勢などと厳しく批判した。 「止めよう新基地建設! 命育む美ら海を守り抜く」と題し たアピール文も採択。シュプレヒコールで新基地建設に抗議 する決意をこぶしに込めた。》

◆3地点目の掘削機設置 名護市辺野古沖◆

琉球新報】(2014年8月25日) ・ゲート前で新基地建設反対の抗議活動する 市民ら=25日午前10時、名護市辺野古 のキャンプシュワブゲート前 【辺野古問題取材班】名護市辺野古沖の米軍普天間飛行場移 設に向けた新基地建設工事で25日午前、辺野古崎から辺野 古漁港向けの砂浜にボーリング機の設置が確認された。陸上 部分での機材設置は18日以降、3地点目。桟橋付近のボー リング機が見当たらなくなっていることから、別の場所に移 動したと思われる。   一方、市民のカヌー隊はこの日午前9時50分ごろ、辺野古 漁港隣の浜を12艇で出発した。浮具(フロート)沿いを平 島方面に向かった。海上保安庁が台船を囲むフロートの内側 にもゴムボートを配置し、警戒していることから、カヌー隊 と共に抗議行動する市民の監視船からは「沖縄防衛局に協力 するのか。中立のはずではないのか」なとの声が飛んだ。   キャンプ・シュワブゲート前では早朝から約90人の市民が 抗議活動に参加している。「沖縄『建白書』を実現し未来を 拓く島ぐるみ会議」の関係者約160人もバス3台で午前 10時前に県庁前を出発し、ゲート前の抗議活動に参加する 予定。【琉球新報電子版】》
★☆★琉球新報
★この国はどこで間違えたのか ~沖縄と福島から見えた日本~ この国はどこで間違えたのか ~沖縄と福島から見えた日本~

公明党殿、「第1・1自民党」に御改名遊ばせ。戸田城聖が泣いている。

特定秘密保護法は廃案にせよ、権力に匕首を持たせるのと同じだ。

◎◎◎万能川柳20周年記念ベスト版◎◎◎

仲畑貴志・編集  毎日新聞社刊 (2011/4/14) 毎日新聞の「仲畑流万能川柳」に寄せられた作品  の中から、秀逸句を厳選したとっておきの1260句。  20周年記念特別企画として糸井重里氏、南伸坊氏  ら爆笑鼎談も収録。泣いて笑って20年。5年半、  264万句から超厳選。日本のつぶやき傑作集。 ★万能川柳20周年記念ベスト版
・鉛筆を9年ぶりに削ったよ    尼崎  シュリア
・トンネルを作ってのぞく袋とじ  泉佐野 佐古善嗣
・八十路過ぎまだボンノーの池の中 湘南  秋元文枝

≪■★■≫詩歌 逍遙(俳句) ≪■★■≫

加藤楸邨

「雪後の天」

・四万川にぐわらりと春の氷柱かな

・春の炉や母の茶に侍す峡の朝

・奥四万や落石はしる雪の上

加藤楸邨(かとう しゅうそん)  (1905年5月26日 - 1993年7月3日) 本名武雄。山梨県出身。はじめ水原秋桜子に師事 したが、唯美的傾向にあきたらず、生活諷詠を基 調とする「寒雷」を創刊。戦中・戦後を通じて人 間性の回復のためにたたかった。「寒雷」「雪後 の天」「野哭」「起伏」等の句集のほか、芭蕉に 関する著書などがある。 Wikipedia:加藤楸邨 

◇◆◇『出家とその弟子』◇◆◇〈130〉

※恋愛と性欲、それらと宗教との相克の問題についての 親鸞とその息子善鸞、弟子の唯円の葛藤を軸に、親鸞の 法語集『歎異抄』の教えを戯曲化した宗教文学の名作。 本書には青年がどうしても通らなければならない青春の 一時期におけるあるゆる問題が、渾然としたまま率直に 示されており、発表後一世紀近くを経た今日でも、その 衝撃力は失われず読む者に熱烈な感動を与え続けている。 〈この戯曲を信心深きわが叔母上にささぐ〉 極重悪人唯称仏(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ)。  我亦在彼摂取中(がやくざいひせっしゅちゅう)。 煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん)。  大悲無倦常照我(だいひむげんじょうしょうが)。                  (正信念仏偈

第四幕〈その5〉

第一場

黒谷墓地 無数の墓、石塔、地蔵尊等塁々として並んで いる。陰深き樹立ちあり。一寸した草地、所 々にばら、いちご等の灌木の叢(くさむら)。 路は叢の陰から、草地を経て樹立ちの中に入 っている。 人物 唯円     かえで     女の子、四人 時  春の午後 第三幕より一年後 [唯円](拳を握る)私にお銭があったらなあ。 [かえで]いいのよ。私はあなただけはお客としてつきあってる      のではないのですもの。幾ら出来たって、あなたにお      銭で買われるのは死んでも嫌ですわ。(涙ぐむ) [唯円]あなたは私故に辛いでしょうねえ。 [かえで]私は構いませんわ。それよりあなたお寺の方の首尾が      悪くはなくて。 [唯円](暗い顔をする)少しはお弟子たちには怪しく思ってい      るものもあるようです。 [かえで]お師匠様には知れはしなくて。 [唯円]ええ。(不安そうな顔をする) [かえで]今日は何と云って出ていらしたの。 [唯円]黒谷に様にお参りして来ると言ったのです。 [かえで]お師匠様は何とおっしゃいました。 [唯円]ついでに真如堂に回って、緩(ゆっ)りして帰るがいい     とおっしゃいました。 [かえで]そうですか。(考える) [唯円]私はお師匠様に嘘をつくのが苦しくていけません。今朝     も黒谷にお参りして、法然様のお墓の前に跪(ひざまず)     いて、私は心からお詫びを申しました。 [かえで](急に沈んだ表情になる)清いあなたに嘘を云わせる      のも皆私の勢(せい)です。 [唯円]いいえ。そうではありません。 [かえで]堪忍してください。(手を合わす)                          (つづく)    

◆◇◆◇◆開高健名言辞典<漂えど沈まず>◆◇◆◇◆(24)

開高健名言辞典<漂えど沈まず>: 巨匠が愛した名句・警句・冗句200選 ・巨匠が愛した名句・警句・冗句200選 滝田誠一郎
アマゾンや、 どれが尻やら乳房やら (『オーパー』集英社文庫 40頁)
1)一九七七年八月から一〇月にかけて全行程六五日。アマゾン河 を上ったり下がったりすること全行程一万六〇〇〇キロ。総予算 八〇〇万円を費やした大釣行記『オーパー』の中で紹介されてい る俳句である。 作者は南米銀行の頭取にまでなった俳句狂の日系人。それを小説 家に紹介したのが当時サンパウロ日本人学校で日本語の講師を していた『オーパー』の水先案内人、醍醐麻沙夫さんである。 八月一八日、アマゾン河口の町ベレンを出港した「無敵艦隊オオ カミ」号はくねくねした水路を一夜と一日航行したのち、アマゾ ンの本流に入る。 《(略)そうなると、空と水があるきりで、甲板の右も左も岸が 見えない。青い空と黄いろの水の無辺際の膨張である。》 (『オーパー』集英社文庫 37頁)続く

◎◆◎アートのたのしみ《カジミール・マレーヴィチ》(1)◎◆

マレーヴィチ「きこり」
〈1912年 アムステルダム市立美術館蔵〉 (94 x 71.5 cm)
カジミール・マレーヴィチ
(Kasimir Malevich) 〈1878年2月23日 - 1935年5月15日〉 ロシア帝国ウクライナキエフ生まれ。両親はポーランド人 で、マレーヴィチにはウクライナ語で話し、ポーランド語で書 き、後に習得したロシア語で活動を行うという語学的分裂が生 じたとされる。 新印象主義、フォービズム、キュービズムを経て、1913年、モ スクワでシュプレマティスム(絶対主義)を提唱。モンドリア ンとともに、純粋に幾何学的な抽象表現の画家となる。1909年 「ダイヤのジャック」展などで、レジェ風にチューブ様のキュ ビズムで注目される。ロシア未来派として活躍。 やがてスターリン政権下のソ連で美術に対する考え方の保守化 が徹底し、前衛芸術運動が否定され芸術家は弾圧された。多く の同志たちと袂を分かち、マレーヴィチは一介の測量師として 写実的な具象絵画に戻り、その一生を終えている。
マレーヴィチ『自画像』(1933年)
〈ロシア美術館蔵 サンクト・ペテルブルク〉 (Oil on canvas 73 x 66 cm)    ★Kazimir Malevich (2010/05/31 にアップロード) 【Kazimir Severinovich Malevich (February 23, 1879 -- May 15, 1935) was a Russian painter and art theoretician, born in Ukraine of ethnic Polish parents. He was a pioneer of geometric abstract art and the originator of the Avant-garde Suprematist movement.】

◇◆◇マイ視聴コーナー◇◆◇

☆The Best Of Everyting' 84 《51》 (2014/03/02 に公開) 【Frank Sinatra: "The Best Of Everything" - Pacific Amphitheatre, CA. July 7th, 1984 - Contact me at Franklyjoy22@gmail.com !】 ☆☆☆フランシス・アルバート・"フランク"・シナトラ ・Francis Albert "Frank" Sinatra (1915年12月12日 - 1998年5月14日) アメリカのジャズ・ポピュラー歌手。現在も歌い継がれる 数々の世界的大ヒット曲を世に送り出し、その卓越した歌 唱力によって「ザ・ヴォイス」と称された。エルヴィス・ プレスリーマイケル・ジャクソンなどと並び、20世紀 を代表する歌手の一人である。「Q誌の選ぶ歴史上最も偉 大な100人のシンガー」において第3位にランキングさ れた。第二次世界大戦前の1930年代より死去する1990年代 までの長きに渡り現役の歌手として活動し、数々のミリオ ンセラーを連発し、また多くのミュージシャンに影響を与 えた。映画俳優としても活躍し、1953年には第26回アカ デミー賞助演男優賞を受賞している他、数多くの名作、ヒ ット作に出演している。 ★Frank Sinatra BiographyWikipedia:フランク・シナトラ

◎歌集 『美しく愛(かな)しき日本』 岡野弘彦

岡野弘彦さんは平成25年度文化功労者歌集 美しく愛しき日本』より 【誰びとか、民を救はむ】 親ゆずり 祖父(おほぢ)ゆずりの政治家(まつりごとびと) 世に傲(おご)り 国をほろばす 民を亡(ほろ)ぼす 役人(つかさびと)・政治家(まつりごとびと)  真(まこと)なき世に生きて 民は何たのむべき 天意より人意この国をほろばさむ。 議事堂はただ 政争の場ぞ 国ほろび 民ほろびゆく時の間も  あはあはとして 言葉あらそう 誰びとか民を救はむ。 天皇(すめろぎ)は老いの身ふかく 跪きます

◆◇◆日本国よ、沖縄に謝れ! 日本国よ、福島を返せ!◆◇◆

◆フィリップ・ホルム「戦争絶滅受合法案」◆

かって、「戦争絶滅受合法案」なるものがあった。前世紀の初め デンマークの陸軍大将フィリップ・ホルムが、各国に次のような、 法律があれば、地上から戦争がなくせると考えたのだ。
戦争が開始されたら一〇時間内に、次の順序で最前線に一兵卒と して送り込まれる。 第一、国家元首。 第二、その男性親族。 第三、総理大臣、国務大臣、各省の次官。第四、国会議員、     ただし戦争に反対した議員は除く。 第五、戦争に反対しなかった宗教界の指導者。
――戦争は、国家の権力者たちがおのれの利益のために、国民を 犠牲にして起こすものだとホルムは考えた。だから、まっさきに 権力者たちがから犠牲になるシステムをつくれば、戦争を起こす ことができなきなるだろう、というわけだ。    (『犠牲のシステム 福島・沖縄』 (集英社新書) 38頁) 犠牲のシステム 福島・沖縄 (集英社新書) ■見よ、沖縄の今の現実を! 知れ、日本国の自国民への凶行を! 標的の村 国に訴えられた沖縄の住民たち (公開日: 2013/06/16) 【標的の村 国に訴えられた沖縄の住民たち  http://ima-ikiteiruhushigi.cocolog-ni...