クール・ビズ に難癖をつける江戸ッ子がいなくなった
《「
◆ハッとするピクチャー(Source:REUTERS◇)
◇A Syrian refugee girl
(A Syrian refugee girl walks inside the Mrajeeb Al Fhood
refugee camp, 20 km (12.4 miles) east of the city of
Zarqa April 29, 2013. The Mrajeeb Al Fhood camp, which
cost seven million dinars ($9.9 million) with funding
from the United Arab Emirates, has received about 2500
Syrian refugees so far, according to the Red Crescent
Society of the United Arab Emirates.
REUTERS/Muhammad Hamed)
娘が幼いころ、「どうしてパパはいつもネク
タイを締めているの」と訊かれて答えに窮し
た。自分でも合理的な説明がつかぬからであ
る。
はたして正答であったのかどうか、何となく
うら悲しい返事である。私のふるさとはいつ
に間にか、習俗も言葉も矜持も、雑駁たる文
化の中に埋もれてしまった。
少々季節はずれの話題ではあるが(くろもり
註。これが書かれたのは2006年9月下旬)、
そんな私にとって「
クール・ビズ 」なるノー
ネクタイ運動は噴飯ものであった。
「エコ」という
大義 名分は、景気回復が至上
命題たる昨今のご時世ではまったく説得力に
欠ける。
早い話が楽な身なりをして大衆に阿(おもね)
ろうとするのか、あるいは本人が楽をしたい
のかどちらかであろう。いずれしろ江戸ッ子
の道徳に反する。
楽ななりをしていくら冷房費を節約したとこ
ろで、何も変わるまい。
そんなことよりも、人と接するに際して、あ
るいは事をなすにあたって、礼を失し威儀を
たださぬことがどれほど当人の力を削ぐか、
何十年もネクタイを締め続けてきた男子なら
ばわからぬはずはありまい。
異論はさまざまあろうけれど、私個人として
は“つっかけ”をはいて地下鉄に乗る無礼者
の印象を、どうしても拭い去ることができな
いのである。
私の祖父は二の腕に彫り物を入れた博奕打ち
で、祖母は深川の鉄火芸者だった。そもそも
は
武家 であったらしいが、
明治維新 で落魄し
たあと、祖父の代にはそういうことになって
いた。
教養のかからもない二人ではあったが、身な
りはいつもきちんとしており、背筋は凛と伸
びていた。そして思いますだに胸のすくよう
な、正しい
東京弁 を使った。
カジュアルに変容した銀座通りを歩いている
と、何となく背広の胸に祖父母の位牌を抱い
ているような気になる。
それくらい、「
クール・ビズ 」に難癖をつけ
る江戸ッ子がいなくなってしまった。それで
もやはり私のふるさとは、矜(ほこ)り高い
よそゆきの街である。
(『
朝日新聞 』二〇〇六年九月二十八日)
」》
■奇しくも、
クールビズ 初日。多くの企業や
中央省庁や各地の
自治 体が
クールビズ 態勢を
スタートさせました。
東京・
霞が関 の官庁街では、
上着 やネクタイ
を着用しない軽装で出勤する職員の姿が多く
見られました。
夏の節電対策の一環として、冷房の設定温度
を上げて軽装で過ごす。趣旨はごもっともで
すが、服装に関して、お上から、とやかく言
われのは、江戸ッ子の端くれとしては、面白
くないのです。
官製ファッションなんて、真っ平だと反骨心
がうごめくのです。
思えば、近世に入って、
江戸幕府 が
士農工商
を問わずに、贅沢を禁じる法令及び命令をい
くどか発令しています。
たとえば、
寛永 5年(1628年)には、農民に
対しては布・木綿に制限(ただし、名主及び
農民の妻に対しては紬の使用を許された)さ
れ、下級武士に対しても紬・絹までとされ贅
沢な装飾は禁じられました。
この禁止令では、人々は色を身につけること
も禁止とされ、色の付いた服を着ていたら逮
捕されました。
これでは、おしゃれもできない。しかし人々
のおしゃれがしたい、色を身につけたいとい
う欲求は抑えることはできませんでした。
お上になんと言われようと、おしゃれしたい、
いろんな着物の色や柄や生地を楽しみたい!
江戸の人々はなんとかお上の目をくぐりぬけ
ようとします。
そして、工夫されたのが四十八茶百鼠。
当時の人々が身につけることを許されたのは、
「茶色」「鼠色」「藍色(納戸色)」だけで
すが、当時は色の細かい指定や規定はないの
で、「茶色」「鼠色」「藍色(納戸色)」の
バリエーションを増やすことに工夫をこらし
たのです。
江戸時代の粋でいなせな文化というのは、さ
まざまな決まりのなかでどうしたら自分たち
の望むものに近づけるのかと考えた人々の努
力の結晶でした。
教訓。決まりごとに対して文句ばかり言うの
ではなく、その中で何ができるか考えること
が大切なのかもしれませんね。
☆四十八茶百鼠 サンプル
☆江戸の粋―東都文物往来 (別冊太陽
日本のこころ 35)
江戸の粋―東都文物往来 (別冊太陽 日本のこころ 35)
☆暮らしに生かす江戸の粋 (
集英社 be文庫)
暮らしに生かす江戸の粋 (集英社be文庫)
(つづく)
(1381dys-868ent)
☆
浅田次郎 著『ま、いっか。』(
集英社文庫 )
★
ま、いっか。 (集英社文庫)
・文庫:272ページ
・出版社:
集英社 (2012/11/15)
・さあ、身近の「ま、いっか」について、もう一度考え直して
みようか、と。花と読書を愛した青春時代の思い出。巷に氾濫
する美人たちへの忠告。旅と買い物の、とっておきの楽しみ方。
老化について、女の誤解と男の本音。豊富な話題をもとに粋な
オヤジ目線で語られるのは、江戸っ子らしいキレの良さと滋味
たっぷりの現代考察。著者の生き方の美学がきらりと光る、軽
妙洒脱なエッセイ集。
自分のために笑え。人のために笑え。いつも背筋を伸ばし、鉄
の心を忘れるな。粋に、一途に、ゆうるりと。
浅田次郎 が贈る、
軽妙洒脱な生き方指南。
◎
浅田次郎 。1951年、東京都出身。
自衛隊 に入隊、除隊後はア
パレル業界など様々な職につきながら投稿生活を続け、1991年、
『とられてたまるか!』で、デビュー。悪漢小説作品を経て、
1995年『地下鉄に乗って』で
吉川英治文学新人賞 、1997年『鉄
道員』で
直木賞 、2000年『
壬生義士伝 』で
柴田錬三郎賞 、2006
年『お腹召しませ』で
中央公論文芸賞 と
司馬遼太郎 賞、2008年
『中原の虹』で
吉川英治文学賞 を、それぞれ受賞。時代小説の
他に『
蒼穹の昴 』、『中原の虹』などの
清朝 末期の
歴史小説 も
含め、映画化、テレビ化された作品も多い。
・
浅田次郎 氏
・セシウム スイカ とダチョウ狩り・(その5)
ダチョウは元々東電福島第一原発 のマスコットとして飼育された
《「―――同僚から話を聞いたときは嘘だと思った。調べてみる
と、元々1F(
東京電力 福島第一原発 )のマスコットとしてダチ
ョウを飼育していた時期があったと知った。
ごく少量のウランから膨大なエネルギーを生み出す
原発 を、少な
い餌で飼育出来るダチョウに重ねたためで、その後、農園の経営
者が引き取たったという。避難する際、経営者が檻を開け放った
とも聞いたが、当人は見つからないので、正確な事情は不明だ。
その後、シェルターにダチョウを追い回す上会社のリーダーの写
真が貼られた。タイペックを着込んだ人間とのツーショットは、
なんともシュールで作業員の爆笑を誘った。
どうやら特段苦労せずとも会えるらしい。カメラと一緒にペット
フードも持参した。
津波 によって駅舎が失われた富岡駅付近を探
したが、なかなか会えなかった。
犬や猫、牛などは頻繁に目にした。その度にペットフードを置い
た。みな痩せている。かって艶々した毛並みだったろう洋猫は、
所々毛が抜け、まだら模様になっていた。
お目当てのダチョウには、
無人 の住宅街で見つけた雑種犬に、餌
をやっている最中に遭遇した。路地から当然現れ、我々の車を見
たまま動かなかった。
油断して車に置きっぱなしのカメラを取るため、ゆっくり後ずさ
りした。物音を立てないよう静かに開けたつもりだが、ダチョウ
はカメラを構える前に逃げていった。かなり痩せていた。このま
ま野生化すれば危険と見なされ、
安楽死 させられうかもしれない。
――」》
☆福島第1
原発 残骸
☆化学防護服 デュポン タイベック ソフトウェアIII型
■核燃サイクル:秘密会議問題 東京地検 、委員長ら不起訴
【
毎日新聞 】(2013年05月01日 東京朝刊)
内閣府 原子力委員会 が
原発推進 側だけで「勉強会」と称する秘
密会議を開き、表(おもて)の小委員会で使用予定の議案など
を電気事業者に事前提供していた問題で、
東京地検 特捜部は、
国家公務員法 (
守秘義務 )違反容疑で告発されていた
近藤駿介
原子力 委員長や鈴木達治郎委員長代理らについて、4月26日
付で容疑なしで不起訴処分とした。
守秘義務 が生じる「秘密」
には当たらないと判断したとみられる。【吉住遊】
▼公務員は、仲間内には甘い。これ、国民への裏切り行為だ。
☆高橋哲哉 『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書 )☆(186)
・新書:224ページ
・出版社:
集英社 (2012/1/17)
・本書のテーマは、犧牲のシステムとしての福島と沖縄である。
なぜ、福島と沖縄のか。それれは、一九四五年の敗戦以後、今
日までの日本を「敗戦日本」と呼ぶなら、これら二つの地名が、
戦後日本の国家体制に組み込まれた二つの犧牲のシステムを表
しているからだ。
沖縄が戦後日本の犧牲でったこと。それは、
沖縄戦 という史上
稀に見る過酷な戦闘の戦場にされた沖縄に米軍が居座り、サン
フランシスコ
講和条約 第三条によって、沖縄がその米軍の施政
下に置かれ、一九七二年に日本に復帰して以後も、今なお全国
の米軍専用施設の約七四パーセントが沖縄に集中しているとい
う、このことをさしている。
★[
犠牲のシステム 福島・沖縄 (集英社新書)
▼△第二部 沖縄 △▼
・第五章 沖縄に照射される福島〈14〉・
・もう一つの神話――民主主義・(下)
現在の沖縄県 選出・出身の国会議員はわずか八名
《「――一前述したように、
沖縄県 民は人口でいえば日本国民
の約一パーセントにすぎない。
したがって、民主主義的な
選挙制度 や多数決原理をあてはまめ
れば、
沖縄県 民がいかに米軍基地の過重負担に反対したとして
も、ヤマトの日本人がそれを肯定する政治的意思を表明すれば、
沖縄の声は圧倒的多数をもって否定されてしまうという構造が
ある。
現在の
沖縄県 選出・出身の国会議員はわずか八名(
衆議院 五名
・
参議院 三名)であって、これではいくらがんばっても、国会
で多数派となることは永遠に不可能だ。
直接民主主義 に訴えても同じだ。ヤマトの日本人がいわゆる
NIMBY(Not In My Backyard=迷惑施設は自分の裏庭には
来てほしくない)という態度をとれば、沖縄の希望は圧倒的多
数をもって否決されてしまう。これが
植民地主義 の実態である。
原発 についても同じことが言える。国家として
原発 を推進する
ことが国民多数の意思として決定されてしまうなら、すでに原
発が存在する地域や、今後
原発 が建設される地域には、そのリ
スクが民主主義的に押しつけれてしまうのだ。
――」》
☆「美ら海(ちゅらうみ)」名護市
辺野古
◎◎◎万能川柳20周年記念ベスト版◎◎◎
・
仲畑貴志 ・編集
毎日新聞社 刊 (2011/4/14)
・
毎日新聞 の「仲畑流万能川柳」に寄せられた作品
の中から、秀逸句を厳選したとっておきの1260句。
20周年記念特別企画として
糸井重里 氏、
南伸坊 氏
ら爆笑鼎談も収録。泣いて笑って20年。5年半、
264万句から超厳選。日本のつぶやき傑作集。
★
万能川柳20周年記念ベスト版
・アナウンサー台風情報弾んでる さいたま 小桜因子
☆★☆言えそうで言えない英会話表現☆★☆
☆《自然に言えるようになりたい会話表現》0501
1 彼女は犬好きよ。
2 それは贅沢な悩みだよ
(僕にもそいう悩みがあればいいな)。
3 まだ宵の口だわ。
4 言われたとおりにやりなさい。
5 この講義で多くのことを学んだ。
1 She's a dog person.
2 I wish I had that problem.
3 The night is still young.
4 Do as you're told.
5 This lecture has taught me a lot.
<NHKラジオ 「英語5分間ト
レーニン グ」
岩村 圭南 - 講師>
※この番組の放送は昨年4月1日で終了しています。
Wikipedia:岩村圭南
◎◆◎アートのたのしみ《サー・トーマス・ローレンス》◎◆◎
Portrait of Mirza Abul Hassan Khan
〈
1810年 個人蔵〉
☆サー・トーマス・ローレンス
(Sir Thomas Lawrence)
〈1769年4月13日 -
1830年 1月7日〉
イギリスの画家。
ブリストル で生まれ。父は宿屋を営む。6歳
のころから、客の好きな物を描いてみせ、絵かきの片鱗を見せ
ていました。父が事業の失敗したときには、トーマスの絵の才
能が家計を支えました。
絵で身を立てる決意をしたトーマスは、
1787年 にロンドンへ出
て、ジョシュア・レノルズ創設のロイヤル・アカデミーの生徒
となり、彼の絵はたちまち評判を得て、1791年にはアカデミー
会員となります。ほどなく、ディレッタンティ協会の画家に任
命され、国王ジョージ3世のお抱え画家の地位を獲得します。
1820年 からロイヤル・アカデミーの会長職に選ばれた。逝去す
るまで会長職を務めました。なお、彼は生涯独身を通しました。
☆Sir Thomas Lawrence『自画像』(1788年)
〈
デンヴァー 美術館蔵〉
◆Sir Thomas Lawrence
VIDEO
【アップロード日: 2009/12/09】
◇◆◇マイ視聴コーナー◇◆◇
☆
Mel Torme - A foggy day in London town
VIDEO
(アップロード日: 2007/08/31)
【
Mel Torme singing "A foggy day in London town"
on the
Nat King Cole show】
☆☆
メル・トーメ
・ルヴィン・ハワード・トーメ(Melvin Howard “Mel” Torme)
(1925年9月13日 ? 1999年6月5日)
アメリ カの
ジャズ歌手 。ジャズ作曲家、編曲家、ドラマー
のほか、俳優としてラジオ、映画、テレビでも活躍した。
愛称は「ベルベットの霧」The Velvet Fog 。
★
Wikipedia:メル・トーメ