銀座に都電が走っていたことを知っている最後の世代

銀座に都電が走っていたことを知っている最後の世代

【東京に生れ育ち、時代の変遷は絶えまなく見続
  けてきているから、子供のころに見た風景はか
  えって記憶から失われてしまった。だが、どう
 いうわけか、四丁目の交差点を縦横に走ってい
 た都電の姿だけは、ありありと瞼に残っている】

浅田次郎著『ま、いっか。』(58)

第2章 ふるさとと旅(6)
尾張町の十文字◇(その1)

銀座に都電が走っていたことを知っている最後の世代

《「 ◆ハッとするピクチャー(Source:REUTERS◇) ◇Quake hits China (Children on the roadside hold a sign that reads "no food, no tent" after a strong 6.6 magnitude earthquake hit the remote, mostly rural and mountainous Lushan county, Sichuan province, April 21, 2013. REUTERS/Aly Song) 私はおそらく、銀座に都電が走っていたこと を知っている最後の世代ではあるまいか。 東京に生れ育ち、時代の変遷は絶えまなく見 続けてきているから、子供のころに見た風景 はかえって記憶から失われてしまった。 だがどういうわけか、四丁目の交差点を縦横 に走っていた都電の姿だけは、ありありと瞼 に残っている。 たぶん、目の奥に灼くついてしまうほど、長 い時間をかけてその風景を眺めていたことが あったのだろう。 記憶の中のアングルからすると、どうやら私 は三越の玄関から交差点を見つめていたよう である。 そのころ、今と同じ場所に三越の玄関があっ たのかどうかは知らないが、ともあれ私の記 憶に残る四丁目の交差点は、きまってその角 度からのものなのだ。 行き交う都電の姿とともに、信号待ちをする 人々の真っ白な日傘が目にうかぶ。おそらく 夏の日盛りのことだったのだろう。 年端も行かぬ少年がそんな場所にぼんやり佇 んでいるわけがないから、私は家族との買物 に飽いて、玄関の獅子の像とたわむていたの かもしれない。 ことさら記憶にとどめるなにがあったわけで もないのに、どうしてその光景だけをはっき りお覚えているのだろうと考える。 五十年を経た今、しいてその答えを探れば、 それが私のふるさとの原風景であったからと いうほかあるまい。 生まれ育った故郷の山や海を眺めるのと同じ ように、私はぼんやりと銀座四丁目の往来を 見つめていたのだろう。 多摩川を渡れば一人の知り合いもいなかった 私にとって、都電が行き交い、パラソルの花 が咲く銀座の街角は、最も象徴的なふるさと の風景だったのだろうか。 祖父や祖母は、銀座四丁目の交差点を「尾張 町の十文字」と読んだ。 」》 ■浅田次郎さん実家が、神田の駅の側にあっ たので、銀座はほとんど徒歩圏内で、子供の 頃から良く遊んでいたので庭のようなものだ ったようです。 浅田さんのおばあさんが銀座好きだったので、 芝居にはよく連れていかれ、歌舞伎座で芝居 を見たら銀座でうまいものを食べさせてもら っていました。 そして、浅田さんのおじいさんも、おばあさ んも、銀座4丁目って言葉を使わず、「尾張 町の十文字」って言っていたのは耳に残って いるんだそうです。 尾張町は、東京都中央区の銀座五丁目と六丁 目付近の旧地名です。江戸時代に、この地を 尾張藩が埋め立て工事をしたので、この地名 が名付けられて、1930年に尾張町一丁目が、 銀座五丁目となり、尾張町二丁目が銀座六丁 目と改称されています。 いずれにしましても、銀座は、江戸っ子にと りまても特別な場所でした。浅草生れの私に とりましても、銀座は憧れの場所でした。 私は、銀座のシンボルとして、好きなのが、 中央区立「泰明小学校」です。1878年設立。 中央区銀座5丁目1番13号にあります。 前を通るたびに校門のフランス門に立ち止ま り、校舎に絡まるツタを、眺めてしまいます。 実に美しい学校です。 関東大震災の後に鉄筋コンクリートづくりの 校舎で再建されてたもので、東京都選定歴史 的建造物と経済産業省近代化産業遺産に指定 されています。 銀座の真ん中に建つこの泰明小学校は、島崎 藤村や北村透谷が卒業した学校としても有名 です。 校歌の作詞者は『花』や『美しき天然』など を作詞した武島羽衣、作曲者は『故郷』『朧 月夜』などを作曲した岡野貞一です。 ちなみに、こんな方々が卒業生です。 朝丘雪路、池田彌三郎、和泉雅子加藤武金子光晴、北村透谷、近衛文麿島崎藤村殿山泰司中山千夏、福田徳三、信欣三、 稲山嘉寛、河原崎国太郎矢代静一、澤村 田之助村田あゆみ、はんつ遠藤、平賀譲 各位。 ここで、私事ながら、戦前、東京に住んで いた時分、青森へ疎開のため一年生、二年 生だけの期間、通学していた小学校が台東 区立「精華小学校」でした(現在は台東区 立蔵前小学校に改称)。 学校の隣の公園は「精華公園」の旧名のまま、 バス停の「精華小前」の表示も残っていまし た。公園の看板には、まだ「精華町内会」の 表示もありした。 じつのところ、明治7年(1874年)より、 夏目漱石が、転居した養父の塩原昌之助宅 (浅草諏訪町)から、精華小学校の前身戸 田小学校へ通っていました。 白状しますと、これが言いたくて、くどく ど書いてきたようですね。失礼しました。 ☆銀座三越 ライオン像 ☆泰明小学校 ☆泰明小学校 フランス門 (つづく) (1373dys-864ent) ☆浅田次郎著『ま、いっか。』(集英社文庫) ま、いっか。 (集英社文庫) ・文庫:272ページ ・出版社:集英社 (2012/11/15) ・さあ、身近の「ま、いっか」について、もう一度考え直して みようか、と。花と読書を愛した青春時代の思い出。巷に氾濫 する美人たちへの忠告。旅と買い物の、とっておきの楽しみ方。 老化について、女の誤解と男の本音。豊富な話題をもとに粋な オヤジ目線で語られるのは、江戸っ子らしいキレの良さと滋味 たっぷりの現代考察。著者の生き方の美学がきらりと光る、軽 妙洒脱なエッセイ集。 自分のために笑え。人のために笑え。いつも背筋を伸ばし、鉄 の心を忘れるな。粋に、一途に、ゆうるりと。浅田次郎が贈る、 軽妙洒脱な生き方指南。 ◎浅田次郎。1951年、東京都出身。自衛隊に入隊、除隊後はア パレル業界など様々な職につきながら投稿生活を続け、1991年、 『とられてたまるか!』で、デビュー。悪漢小説作品を経て、 1995年『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞、1997年『鉄 道員』で直木賞、2000年『壬生義士伝』で柴田錬三郎賞、2006 年『お腹召しませ』で中央公論文芸賞司馬遼太郎賞、2008年 『中原の虹』で吉川英治文学賞を、それぞれ受賞。時代小説の 他に『蒼穹の昴』、『中原の虹』などの清朝末期の歴史小説も 含め、映画化、テレビ化された作品も多い。 ・浅田次郎

浅田次郎著『ま、いっか。』(58)

◆◇◆立ち読み◆◇◆

鈴木智彦『ヤクザと原発 福島第一潜入記』文藝春秋刊(216)

・単行本: 256ページ ・出版社:文藝春秋 (2011/12/15) ・原発は儲かる。どでかいシノギだな。電力会社と交渉して、 ゼネコンと話付けて、地元の土建屋に仕事を振る。代紋なしで はとても捌ききれん。原発はタブーの宝庫。裏社会の俺たちに は、打ち出の小槌となるんだよ」。ヤクザが語る衝撃の事実。 日本最大のタブーがいま明かされる! 誰も書けなかった 命 懸けの衝撃ノンフィクション―。 ★ヤクザと原発 福島第一潜入記 ▼△第五章 原発稼業の懲りない面々(34)△▼

セシウムイカとダチョウ狩り・(その1)

暴走した1〜4号機の炉心にはまだ手が付けられず、
《「―――相変わらず使えない作業員ではあっても、次第に体が 慣れてくると、1F(東京電力第一原発)での作業はうまみが多 いと感じるようになった。 暑さもさほど辛くない。装備を着込み、全面マスクを装着して現 場に出ると、作業に夢中になってしまい暑さを感じる余裕がない のだ。 作業後、必ず汗だくになるので、想像以上の暑さであることは間 違いないが、私のように不摂生な生活を送り、さほどタフではな く、肉体労働をほとんどしたことのない人間でもコツさえつかめ ば耐えられる。 溶接を担当する作業員は、タイペックの上にもう一枚つなぎを着 るのでしんどいだろうが、彼らも作業に没頭しているときはさほ ど感じないという。 線量も想像以上に低いし、現場を出たくないという声を何度も聞 いた。もちろん私は東芝系列の作業しか体験していないので、他 の部署のとは分からない。 1Fの復旧作業あちこちから同時並行で進められていた。 6つの原子炉は、1号機が米GE(ゼネラル・エレクトリック社) で、2・6号機がGE・東芝連合、3・5号機が東芝、4号機が 日立製作所がが主契約者である。 暴走した1〜4号機の炉心にはまだ手が付けられず、遮蔽された 特別製トラックから遠隔操作ロボットを操り、専門部隊がメルト ダウンした原子炉建屋の中の放射線量を調査・除染していた。 汚泥や瓦礫を撤去し、道路などのインフラを整備したり、これ以 上の放射性物質を拡散させないためのカバーを設置する準備も進 んでいた(10月14日、1号機に設置)。 絶え間なく冷却水を送り込み、汚染された水を浄化し、必要によ っては敷地内のありこちに設置されたタンクに移送する。私は就 職した上会社は、この汚染水処理の一部を担当している。 ――」》 ☆福島第1原発残骸 ☆化学防護服 デュポン タイベック ソフトウェアIII型
IAEA調査団は、汚染水対応が最大の課題と指摘しました
・会見中のIAEAのレンティッホ部長  の事の深刻さを表わす苦しげな表情が  印象的でした。それに比べ、東京電力  の連中の仮面ズラよ。 東京電力福島第一原子力発電所廃炉作業の検証を進めてきた IAEA国際原子力機関の調査団が22日、すべての日程を 終えて会見し、「汚染水への対応が直近では最大の課題だ」と して、東京電力と政府は汚染水による敷地外への影響をさらに 調べ説明すべきだと指摘しました。 調査団長のIAEAのレンティッホ部長が会見し、汚染水が漏 れるトラブルが相次いでいることについて「福島第一原発では 汚染水への対応が直近では最大の課題だ」と述べたうえで、汚 染水の管理の信頼性をより高めるとともに、東京電力と政府は 汚染水による敷地外への影響をさらに調べ説明すべきだとも。 また、ネズミが原因で22日も使用済み燃料プールの冷却が一 時止まったことについて、「仮の設備を恒久的なものに換えて いくことが重要だが、それでもトラブルは起こるので、起きた ときに迅速に対応する能力が重要だ」と話しました。 さらに、40年かかるとされている廃炉については「何年かか るということを計画で定めても、膨大で複雑な工程なので確約 は非常に難しい。安全側に立って注意深く当たらねばならない」 と話し、廃炉の難しさを強調しました。 そのうえで、レンティッホ部長は「廃炉作業には社会からの信 頼が欠かせない」と話し、東京電力はトラブルに関する情報提 供を見直すなど追加的な対策が必要だと忠告しました。
★☆★福島民報のニュースサイト
◆◇◆立ち読みのはしご◆◇◆

高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書)☆(182)

・新書:224ページ ・出版社:集英社 (2012/1/17) ・本書のテーマは、犧牲のシステムとしての福島と沖縄である。 なぜ、福島と沖縄のか。それれは、一九四五年の敗戦以後、今 日までの日本を「敗戦日本」と呼ぶなら、これら二つの地名が、 戦後日本の国家体制に組み込まれた二つの犧牲のシステムを表 しているからだ。 沖縄が戦後日本の犧牲でったこと。それは、沖縄戦という史上 稀に見る過酷な戦闘の戦場にされた沖縄に米軍が居座り、サン フランシスコ講和条約第三条によって、沖縄がその米軍の施政 下に置かれ、一九七二年に日本に復帰して以後も、今なお全国 の米軍専用施設の約七四パーセントが沖縄に集中しているとい う、このことをさしている。 ★[犠牲のシステム 福島・沖縄 (集英社新書) ▼△第二部 沖縄 △▼ ・第五章 沖縄に照射される福島〈10〉・

・見えない前提――地域格差・(その1)

地方自治体の原発誘致の背景には経済的な貧しさがある
《「――一沖縄についても、福島についても、基地や原発によ るリスクは、経済的なメリットが提供されることによって十分 補われているという議論についてさらにつけ加えるなら、その 背景には、やはり地域ごとの経済格差がある。 青森県には六ケ所村など原発関連施設が集中させられているが、 福島原発事故後の二〇一一年六月に行われた青森県知事選でも、 原発推進派の現職・三村申吾氏が三選を果たした。 三村知事は菅首相脱原発宣言に反発した人物である。三村知 事の姿勢の背景には、原子力関連事業が県内の主要な産業とな っており、原発の稼働を止めたら県の経済が回らなくなるとの 認識があるものと考えられる。 地方の自治体が原発の安全性に不安をもちながらも、「安全神 話」を頼んで原発を誘致する背景には、経済的な貧しさがある ことは確かである。 沖縄県もまた、たとえば一人当たりの県民所得でみれば、全国 でも最下位のレベルにある。 だから忘れてならないのは、まさにこうした地方の貧しさ、大 都市との経済格差が、日本近代のなかでつくられてきたものだ という点である。――」》 ☆「美ら海(ちゅらうみ)」名護市辺野古 
■式典「評価しない」7割 「屈辱の日」理由最多
沖縄タイムス】(2013年4月23日) サンフランシスコ講和条約発効から61年目の28日に政府が 連合国占領下からの独立を記念する「主権回復の日」式典を開 くことについて、沖縄タイムス社と琉球朝日放送(QAB)は 全県で世論調査を行った。 政府式典の賛否を聞いたところ、69・9%が「評価しない」 と回答、安倍晋三政権による式典開催を否定的に捉えている。 政府が全都道府県知事を式典に招待したことへの県の対応をめ ぐっては、59・6%が「だれも出席すべきではない」と答え、 副知事を代理出席させる仲井真弘多知事の判断とズレがあるこ とも浮き彫りとなった。県民の7割近くが政府式典を評価しな かった一方で、「評価する」は14・2%にとどまった。「ど ちらともいえない」は16%だった。 →→→☆☆☆記事全文へ続く
安倍内閣支持率70%弱、未来なくとも今の状態に満足な民。

◎◎◎万能川柳20周年記念ベスト版◎◎◎

仲畑貴志・編集  毎日新聞社刊 (2011/4/14) 毎日新聞の「仲畑流万能川柳」に寄せられた作品  の中から、秀逸句を厳選したとっておきの1260句。  20周年記念特別企画として糸井重里氏、南伸坊氏  ら爆笑鼎談も収録。泣いて笑って20年。5年半、  264万句から超厳選。日本のつぶやき傑作集。 ★万能川柳20周年記念ベスト版
・老友の「生きとるか」には愛がある    玉野 真砂博
・「好きにしろ」ホントに好きにしやがった 宝塚 猿レンチ
・渋滞のアタマは規則守るヤツ       市川 真野滋哉
 

☆★☆≫ 詩歌逍遙 ≪☆★☆

         室生犀星 
・秋の日・
      つかの間に消え去りし つかの間に消え去りしは あきつのかげにあらざるか ぐらすのごとき秋の日に かげうち過ぐるもの わが君のかげにあらざるか とほき床屋のぎん鋏 川をへだてつ 波を越えくるかげなるか あらずおんみのひとみより わが眼うれひてかげを見る  (抒情小曲集) ※室生犀星 (1889年8月1日 - 1962年3月26日) 詩人・小説家。本名照道。金沢生れ。十七歳のとき 「新声」に投じた詩が認められ、早熟の才を示した。 萩原朔太郎と「感情」を創刊。詩集「愛の詩集」、 「抒情小曲集」「寂しき都会」「青き魚を釣る人」 「忘春詩集」「鉄集」など。小説「性に眼覚める頃」 「あにいもうと」など。 ※Wikipedia:室生犀星

◆◇◆◇『侏儒の言葉西方の人』◆◇◆◇

芥川龍之介著 新潮文庫版》 侏儒の言葉・西方の人 (新潮文庫)侏儒の言葉(遺稿)◇
トルストイ
ビュルコフのトルストイ伝を読めば、トルストイの「わが懺悔」 や「わが宗教」の嘘だったことは明らかである。 しかしこのを話しつづけたトルストイの心ほど傷ましいものはな い。彼のは余人の真実よりもはるかに紅血を滴らしている。 ※ビュルコフ ロシアの海軍将校、文学者。  〈135〉

☆★☆言えそうで言えない英会話表現☆★☆

さあ、最後の追い込みだ。
We're in the homestretch now.0423
<NHKラジオ 「英語5分間トレーニング」岩村圭南 - 講師> ※この番組の放送は昨年4月1日で終了しています。 Wikipedia:岩村圭南

◎◆◎アートのたのしみ《サー・トーマス・ローレンス》◎◆◎

キャロライン・アプトン(The Hon Caroline Upton)
1800年 Sterling and Francine Clark Art Institute. Museum Collections〉
☆サー・トーマス・ローレンス
(Sir Thomas Lawrence) 〈1769年4月13日 - 1830年1月7日〉 イギリスの画家。ブリストルで生まれ。父は宿屋を営む。6歳 のころから、客の好きな物を描いてみせ、絵かきの片鱗を見せ ていました。父が事業の失敗したときには、トーマスの絵の才 能が家計を支えました。 絵で身を立てる決意をしたトーマスは、1787年にロンドンへ出 て、ジョシュア・レノルズ創設のロイヤル・アカデミーの生徒 となり、彼の絵はたちまち評判を得て、1791年にはアカデミー 会員となります。ほどなく、ディレッタンティ協会の画家に任 命され、国王ジョージ3世のお抱え画家の地位を獲得します。 1820年からロイヤル・アカデミーの会長職に選ばれた。逝去す るまで会長職を務めました。なお、彼は生涯独身を通しました。
☆Sir Thomas Lawrence『自画像』(1788年)
   〈デンヴァー美術館蔵〉 ◆Sir Thomas Lawrence 【アップロード日: 2009/12/09】

◇◆◇マイ視聴コーナー◇◆◇

Mel Torme - Stardust (アップロード日: 2009/10/28) 【Mel Torme, Frank Wess】 ☆☆メル・トーメ [image:w200] ・ルヴィン・ハワード・トーメ(Melvin Howard “Mel” Torme) (1925年9月13日 ? 1999年6月5日) アメリカのジャズ歌手。ジャズ作曲家、編曲家、ドラマー のほか、俳優としてラジオ、映画、テレビでも活躍した。 愛称は「ベルベットの霧」The Velvet Fog 。 ★Wikipedia:メル・トーメ