自分だけが見ることのできないものは自分自身の姿である

自分だけが見ることのできないものは自分自身の姿である

【男女の性別にかかわらず、人間は本来、花も実
 も美しくなければならない。いや、花ばかりが
 美しいはずはなく、実ばかりおいしいはずはあ
 るまい。美しい花はその実もおいしく、おいし
 い実を結ぶ花は美しい、と解するべきであろう】

浅田次郎著『ま、いっか。』(49)

第1章 男の本音(49)
◇ふたたび花実双美◇(中)

自分だけが見ることのできないものは自分自身の姿である

《「 ◆ハッとするピクチャー(Source:REUTERS◇) ◇Ladies of Aintree (Racegoers cheer on the runners and riders in the first race of the day of The Top Novices' Hurdle at Aintree, northern England, April 5, 2013. REUTERS/Russell Cheyne) 幼い頃女衒に買われて島原にやってきた糸里 は、唄や舞や琴や三味線や、そのほかありと あらゆる教養を詰めこまれて育った。 島原の太夫たらんとする女は、姿かたちの美 しさばかりではなく、大名公家までも得心さ せる文化人でなければならないからだ。 花実双美。花も実も双つ美し。 背筋を伸ばして唇を引き結び、鴨居にかけら れた言葉をじっと見上げる少女の姿が思いう かんだ。糸里はその訓えの通りにおのれを鍛 え上げた女だった。 そして、百五十年ほど前の雨降りの夜、利欲 に惑う男どもに代わって、糸里は歴史を造り だす。 男女の性別にかかわらず、人間は本来、花も 実も美しくなければならない。いや、花ばか りが美しいはずはなく、実ばかりおいしいは ずはあるまい。 美しい花はその実もおいしく、おいしい実を 結ぶ花は美しい、と解するべきであろう。 なかなか難しいことではあるけれども、人間 が真にめざすべきはこれである。 むろん歴史を動かすなど本意ではなにしろ、 少なくとも、客をもてなす者の精神はかくあ るべしと、この言葉は諭す。まさしく聖言で ある。 そもそも百五十年前には、自分を客観的に見 ることのできる映像は存在しなかった。写真 がないわけではなかったが、むろん、一般的 ではない。 そればかりかガラスも普及してはおらず、鏡 すらも金属を磨いただけの、甚だぼんやりと した代物であった。 だからその時代の人々は、自分自身の見た目 の美醜を容易に信じなかったのはあるまいか。 誰もがそうと確認できるが、自分だけが見る ことのできないものは自分自身の姿であり、 一方では自分自身も他者と同様に確認できる ものが、技芸であり教養であり、それら実力 に支えられた優雅な立ち居ふるまいだったは ずである。 そうした時代の女性の魅力は、「花実双美」 でなけらばならなかった。 」》 ■幕末のような、大変革期の時代にあっては、 おのれを見失うことなく、ひとりの女性が、 “凛として”生きるのは至難のわざだったと 思います。 幕末から明治にかけて、各分野で地平を開く ように活躍した日本女性は少なくありません が、そんななか、今年のNHK大河ドラマ 「八重の桜」の主人公山本八重も、そんな生 き方をした女性のひとりです。 でも、ここで、私がふれたいのは皇女和の宮 です。彼女の苛烈な生涯をを想うとき、私は 胸が熱くなります。 孝明天皇の妹和の宮は、有栖川宮熾仁親王と いう婚約者(いいなずけ)があり、本人もい くどか泣いて抵抗しましたが、公武合体とい う政略のいけにえとなって、十四代将軍家茂 のもとへ降嫁することを余儀なくされました。 たまたま、昨日放映のNHK大河ドラマ「八 重の桜」第14回「新しい日々へ」のなかで、 小堺一機さんが演じる岩倉具視が登場しまし たが、和の宮の家茂への降嫁を画策したのが この岩倉具視です。 和の宮が嫁いだのは、文久二年、和の宮、わ ず十六歳のときです。 1861年10月京都を出発、中山道を上る一行 は数千人もの盛大なものでした。その際、和 の宮は複雑な胸の内を歌に詠んでいます。 「住み馴れし 都路出でて けふいくひ         いそぐもつらき 東路のたび」 それなのに、それからわずか四年余にして、 家茂はこの世を去ってしまいます。 徳川家は滅亡に瀕します。江戸を攻める東征 軍大総督は、皮肉にもかっての婚約者有栖川 宮熾仁親王でした。 当時未亡人として静寛院宮という名に変わっ ていた和の宮は、徳川家救済のために朝廷に 嘆願書を出さねばならぬ悲劇的運命に追い込 まれます。 このとき、和の宮二十二歳。 維新後は京都に帰り、明治七年から東京麻生 の屋敷でひっそりと暮らしました。明治十年 八月七日、脚気療養のため箱根塔ノ沢の環翠 楼に赴きましたが、九月二日、にわかに衝心 の発作を起こし同旅館でこの世を去りました。 奇しくも夫を死なせた病気と同じ脚気衝心に 襲われたのです。よくよく薄命に生れついた 高貴な女人でありました。 ☆和宮親子内親王(かずのみや・ちかこ・ないしんのう) 内親王和宮様清水御屋形ヨリ御城御入車 系図 和宮様御留 (講談社文庫 あ 2-1) [} 和宮様御留 (講談社文庫) (つづく) (1358dys-855ent) ☆浅田次郎著『ま、いっか。』(集英社文庫) ま、いっか。 (集英社文庫) ・文庫:272ページ ・出版社:集英社 (2012/11/15) ・さあ、身近の「ま、いっか」について、もう一度考え直して みようか、と。花と読書を愛した青春時代の思い出。巷に氾濫 する美人たちへの忠告。旅と買い物の、とっておきの楽しみ方。 老化について、女の誤解と男の本音。豊富な話題をもとに粋な オヤジ目線で語られるのは、江戸っ子らしいキレの良さと滋味 たっぷりの現代考察。著者の生き方の美学がきらりと光る、軽 妙洒脱なエッセイ集。 自分のために笑え。人のために笑え。いつも背筋を伸ばし、鉄 の心を忘れるな。粋に、一途に、ゆうるりと。浅田次郎が贈る、 軽妙洒脱な生き方指南。 ◎浅田次郎。1951年、東京都出身。自衛隊に入隊、除隊後はア パレル業界など様々な職につきながら投稿生活を続け、1991年、 『とられてたまるか!』で、デビュー。悪漢小説作品を経て、 1995年『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞、1997年『鉄 道員』で直木賞、2000年『壬生義士伝』で柴田錬三郎賞、2006 年『お腹召しませ』で中央公論文芸賞司馬遼太郎賞、2008年 『中原の虹』で吉川英治文学賞を、それぞれ受賞。時代小説の 他に『蒼穹の昴』、『中原の虹』などの清朝末期の歴史小説も 含め、映画化、テレビ化された作品も多い。 ・浅田次郎

浅田次郎著『ま、いっか。』(49)

◆◇◆立ち読み◆◇◆

鈴木智彦『ヤクザと原発 福島第一潜入記』文藝春秋刊(207)

・単行本: 256ページ ・出版社:文藝春秋 (2011/12/15) ・原発は儲かる。どでかいシノギだな。電力会社と交渉して、 ゼネコンと話付けて、地元の土建屋に仕事を振る。代紋なしで はとても捌ききれん。原発はタブーの宝庫。裏社会の俺たちに は、打ち出の小槌となるんだよ」。ヤクザが語る衝撃の事実。 日本最大のタブーがいま明かされる! 誰も書けなかった 命 懸けの衝撃ノンフィクション―。 ★ヤクザと原発 福島第一潜入記 ▼△第五章 原発稼業の懲りない面々(25)△▼

・ソープ街は原発バブル・(その1)

原発パブルが訪れ、都心顔負けの高級店も繁盛していた
《「――7月からお盆までは、仕事のあと、飲みにいったり、 小名浜ソープランドに出かける作業員は多かった。 最高気温に達する午後2時〜3時付近の作業を避け、早朝、も しくは夕方の涼しい時間に就業するサマータイム・シフトが導 入され、作業時間が短縮され、夜間の作業は原則的に中止され ていた。 「暗がりの中で転倒したり、側溝に落下して骨折した事故など が続いたからだろう。1F(東京電力福島第一原発)の周囲は 真っ暗で、外灯もなく、ライトを点けても視野が悪い。 太陽が昇って気温が上がってしまうと長い時間働けないが、そ のぶん、安全に作業が出来る。実質的な作業時間を考え、安全 確保に時間をとられる深夜の作業より能率的と判断したんだと 思う」(5月の連休明けから1Fに就労した作業員) サマータイムの導入と熱中症対策のため作業時間が短かった上、 週に1度、2度、休日があったため、休みの前日のいわき湯本 は多くの店が作業員で満席だった。 湯本のみならず、いわき市の中心部も原発パブルが訪れていた。 都心顔負けの高級店も繁盛していた。 私が支払った最高額は18万円だが、エレベーターで一緒にな った協力会社幹部は「この前、4人で3時間で50万円払った」 と苦笑していた。 ――」》 ☆福島第1原発汚染水漏れ  ☆化学防護服 デュポン タイベック ソフトウェアIII型 ■東電虚偽説明で当事者(田中三彦氏)が国会証言 【テレビ朝日報道ステーション〉】(2013年4月5日)  国会では5日、東京電力の虚偽説明問題が取り上げられ、国会 事故調のメンバーとして東電から虚偽の説明を受けた当事者で ある田中三彦氏が参考人として証言した。 田中氏ら国会事故調は去年2月、原発事故の原因を究明するた め、福島第一原発1号機の建屋4階の調査を東電に要請してい た。 しかし、当時の玉井企画部部長が、実際には一定の明るさがあ ったにもかかわらず、現場は「真っ暗だ」と説明。国会事故調 は建屋内部の調査を断念した。 これについて田中氏は「明らかに我々が入ることに対する意図 的な阻止だったと感じている」と述べた。さらに、明るさ以外 にも、東電が嘘の説明をしていたこともわかった。 田中氏によると、東電は現場で使用する線量計の重さが10キ ロあると説明していたが、実際は3キロしかなかった。田中氏 は「東電も4階に非常に注目していた。推測だが、私たちが入 ると、何か変なものを引き出されるのではないかというのもあ ったかもしれない」としている。 この虚偽説明を検証するため、東電は第三者委員会を設置した が、東電側にだけ話を聞いて、「個人の勘違いだった」とする 報告書を出している。 これについて茂木経済産業大臣は「(虚偽説明が)故意であっ たかなかったか、チームの専門的な判断で『国会事故調のヒア リングは必要ない』とした。適正な検証をされたと考えている」 と述べた。 ▼!!!東電も経産省も、同じ穴のムジナだ!!! 私はこの番組の映像を観ていましたが、茂木経済産業大臣は、 明らかに東電にとって不利な田中三彦氏の証言を一顧だにせず、 東電の自己弁護に過ぎないの東電が設置した「第三者委員会」 の報告書の方をチョウチンしていました。 世の中闇だ。 なお、同席していた東京電力広瀬直己社長は、線量計の重さが 10キロではなく実際は3キロであったことを認めていました。 ☆東京電力広瀬直己社長
★☆★福島民報のニュースサイト
◆◇◆立ち読みのはしご◆◇◆

高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書)☆(173)

・新書:224ページ ・出版社:集英社 (2012/1/17) ・本書のテーマは、犧牲のシステムとしての福島と沖縄である。 なぜ、福島と沖縄のか。それれは、一九四五年の敗戦以後、今 日までの日本を「敗戦日本」と呼ぶなら、これら二つの地名が、 戦後日本の国家体制に組み込まれた二つの犧牲のシステムを表 しているからだ。 沖縄が戦後日本の犧牲でったこと。それは、沖縄戦という史上 稀に見る過酷な戦闘の戦場にされた沖縄に米軍が居座り、サン フランシスコ講和条約第三条によって、沖縄がその米軍の施政 下に置かれ、一九七二年に日本に復帰して以後も、今なお全国 の米軍専用施設の約七四パーセントが沖縄に集中しているとい う、このことをさしている。 ★[犠牲のシステム 福島・沖縄 (集英社新書) ▼△第二部 沖縄 △▼ ・第五章 沖縄に照射される福島〈1〉・

・「植民地」としての福島・(上)

管内である関東地方には、東京電力原発は一つもない
《「――一これまで、戦後日本の日米安保体制は、沖縄をスケ ープゴート(犧牲の山羊)とする一つの犧牲のシステムであっ たこと、 そこには、戦後日本の継続する植民地主義があったこと、そし て、日本人の無意識の植民地主義がそこに組み込まれていたこ と、などを論じてきた。 ここで翻って、福島についも、そこに一種の植民地主義が存在 しているのでないか、という問いを提起してみたい。 福島原発事故であらわになった構図の一つは、本来東北電力の 管内である福島県浜通り地方に、東京電力の二つの原子力発電 所、合わせて一〇基の原子炉が集中立地されて、その原発のリ スクはまず第一に福島県民が負っているにもかかわらず、その 利益は関東地方、東京電力管内で享受さてれいるというものだ った。 これは、東京電力柏崎刈羽原発新潟県に立地されているの と同じ構図である。新潟県東北電力の管内だが、そこに東京 電力が原発を立地している。 逆に、関東地方には東京電力原発は一つもない。ちなみに、 茨城県東海村原発は、日本原子力発電が事業主であって東電 の発電所ではない。 ―」》 ☆「美ら海(ちゅらうみ)」名護市辺野古    ■普天間返還22年度以降 日米合意 【琉球新報】 (2013年4月6日) 【東京】日米両政府は5日、普天間飛行場を含む嘉手納基地よ り南の米軍6施設・区域の返還・統合計画に合意した。 県が県外移設を求める普天間飛行場については名護市辺野古移 設を前提に9年後の「2022年度またはその後」と明記。 計1048ヘクタール余りのうち、地元が早期返還を要望して いる牧港補給地区についてはトリイステーション、キャンプ・ ハンセン、嘉手納弾薬庫の3施設への移転を条件に倉庫地区を 含む大半部分を「25年度またはその後」に返還するとした。 小野寺五典防衛相が6日来県し、仲井真弘多知事に説明する. ⇒⇒⇒■◇■記事全文へ続く ▼同じ記事をジャパンタイムズでみると、「2022年度また はその後」は、“in fiscal 2022 or later ”という書き方に なっています。これほど、日本国民を愚弄した返還・統合計画 がありません。 「or」の意味は、どんな辞書を引いても、 1 〜か、〜ないし〜、または、もしくは 2 そうしなければ、さもなければ 3 すなわち、つまり  つまり、実質的には返還の日時をコミットしてはいないのです。 安倍内閣は、嘉手納より南の人口密集地にある米軍基地の返還 計画を示すことで、辺野古移設−普天間返還に向けて沖縄県側 の軟化を促す魂胆なのでしょう。 しかし、米軍基地を過重な負担に苦しむ沖縄から、国外・県外 に移す抜本的な負担軽減策を講じなければ、沖縄県民の納得し ません。 仲井真弘多知事をはじめ多くの県民が反対する中、なぜ県内移 設を強行できるのか。子どもだましに時期を示して、沖縄県側 に受け入れを迫るのは、恫喝しているのと同じです。

◎◎◎万能川柳20周年記念ベスト版◎◎◎

仲畑貴志・編集  毎日新聞社刊 (2011/4/14) 毎日新聞の「仲畑流万能川柳」に寄せられた作品  の中から、秀逸句を厳選したとっておきの1260句。  20周年記念特別企画として糸井重里氏、南伸坊氏  ら爆笑鼎談も収録。泣いて笑って20年。5年半、  264万句から超厳選。日本のつぶやき傑作集。 ★万能川柳20周年記念ベスト版
・被災地に居る気配せぬ神ほとけ   城陽 真喜楼
・うるさいのケータイよりも車掌さん 西宮 小心者
・環境に優しく人にきつい人     大阪 吉田エミ子
   

☆★☆≫ 詩歌逍遙 ≪☆★☆

         堀口大學 
・記憶・
       多勢の女が私の爲に泣いた 誰であつたか私にはもう記憶がない 澤山の顏が重なり合つて 一つの泣いた女の顏をつくり 退屈な日の煙草の煙の中に 幻の映畫のやうに現はれて シネマの人情劇のやうに私を感動させる 一人はメキシコに住んでゐて 私によく似た男の子の母である 彼女はその子に云つて聞かせる 昔の涙に目を潤しながら 「──お前のお父さんは お前の生れる前に お死(しに)になつたのだ!」 と 一人は信心深いスペイン女であり お金持の老人に可愛がられてゐるが 寢室に懸けた基督磔刑(はりつけ)像の 背中に私の寫眞が貼つてある 信心深い彼女のことだから 朝夕の禮拝を忘れた事がない 一人は眞白な皮膚の上に殘つた 私の齒形の痕を眺めながら これはその頃からの癖なのだが 今も昔を忍んで思ひにふける 一人は左の乳房のかげに Nと云ふ字の刺青を持つてゐる 好奇(ものずき)の男が何の紀念かとたづねると 神經質に聲を立てて笑ひながら 「──何で私が覺えてゐるものか!」 と 多勢の女が私の爲に泣いた 誰であつたか私にはもう記憶がない (新しき小徑) ※堀口大學 (1892年1月8日 - 1981年3月15日) 東京生れ。外交官の父に従い十数年間海外に暮す。 フランス語に精通し訳詩文に多大の業績あり。 「月下の一群」は昭和詩壇に影響を与え、「夜ひ らく」は新感覚派出現の動機となった。創作詩集 「月光とピエロ」「砂の枕」「新しき小径」など。 ※Wikipedia:堀口大學

◆◇◆◇『侏儒の言葉西方の人』◆◇◆◇

芥川龍之介著 新潮文庫版》 侏儒の言葉・西方の人 (新潮文庫)侏儒の言葉(遺稿)◇
・理性・
理性のわたしに教えたものは畢竟理性の無力だった。   
・運命・
  運命は偶然よりも必然である。「運命は性格の中にある」と云う 言葉は決して等閑に生まれたものではない。〈126〉

☆★☆言えそうで言えない英会話表現☆★☆

今夜は僕のおごりだよ。
It's on me tonight.
<NHKラジオ 「英語5分間トレーニング」岩村圭南 - 講師> ※この番組の放送は昨年4月1日で終了しています。 Wikipedia:岩村圭南

◎◆◎アートのたのしみ《フレデリック・レイトン》◎◆◎

ファティディカ(Faticida)
〈1893-4年 レイディー・リーヴァー・アート・ギャラリー、 ポート・サンライト、英国〉
フレデリック・レイトン=初代レイトン男爵
(Frederic Leighton,1st Baron Leighton,PRA) 〈1830年12月3日 - 1896年1月25日〉 イギリスの画家・彫刻家。作品は、歴史、聖書、古典的題材に 由來するものが多い。古典主義。レイトンはヨークシャーのス カボローで医者の息子として生まれる。家族はヨローッパ中を 旅行し、息子には数カ国に留学させ、その結果、レイトンは数 ヶ国語に堪能であった。 1840年、家族はローマに移住。父親はレイトンが医者になるこ とを望んでいたが、レイトンが画家になりたい意志を知って応 援する。当時、多くの美術家はロイヤル・アカデミーで学んだ が、レイトンは違ってブリュッセル、パリ、フランクフルトで 学んだ。 レイトンは、新古典主義の様式で知られていたが、中東への旅 は彼に多大な影響を与え、画風はオリエンタリズムへと変わっ ていった。初期の作品は歴史画、特に中世がテーマであった。 1855年、『チマブーエの「聖母子」』はローヤル・アカデミー に展示され、ヴィクトリア女王のお買い上げとなった。まだ、 25歳の若さであった。 レイトンはホランドパークの地域に邸宅を構え、ギリシャ風に 飾られ、「千夜一夜物語」の豪華さと華麗さに彩られていた。 1878年にローヤル・アカデミー会長に選ばれ、20年間勤めた。 芸術家では初めて、卿(サー)の称号を与えられた。しかし、 そのときはすでに重い扁桃炎に侵されていて、同月に逝去。
☆Frederic Leighton ・自画像 1880年
◆Lord Frederic Leighton 【アップロード日: 2010/12/15 Bilder - Lord Frederic Leighton Musik - Pianist: Chitose Okashiro, Komponist: Debussy Preludes from Book I】 ◆Lord Frederick Leighton - English painter and sculptor. 【アップロード日: 2012/01/29 Art History Videos: http://gekos.no/workshop/video.html Frederic Leighton, 1st Baron Leighton PRA (3 December 1830-- 25 January 1896), known as Sir Frederic Leighton, Bt, between 1886 and 1896, was an English painter and sculptor. His works depicted historical, biblical and classical subject matter. Leighton was bearer of the shortest-lived peerage in history; after only one day his hereditary peerage ended with his death.】

◇◆◇マイ視聴コーナー◇◆◇

☆Blowing In The Wind (Live On TV, March 1963) (アップロード日: 2012/09/11) ☆☆ボブ・ディラン ボブ・ディランBob Dylan) 「風に吹かれて」、「時代は変る」他多数の楽曲により、 1962年のレコードデビュー以来半世紀にわたり多大なる 影響を人々に与えてきました。 〈1941年5月24日 - 〉 ★Wikipedia:ボブ・ディラン