一家の主婦が家で食事を作ることが使命ではなくなった

一家の主婦が家で食事を作ることが使命ではなくなった

【夜ごとうまい食事を亭主に食わせるというの
 は、使命でも責任でもなく、日本女性の美徳
 とするところである。わが国の食文化を支え
 てきたのは、断じて、レストランの厨房では
 なく、世界に類を見ない台所の実力であった】


浅田次郎著『ま、いっか。』(20)

第1章 男の本音(20)
◇飽 食◇(その3)

一家の主婦が家で食事を作ることが使命ではなくなった

《「 ◆ハッとするピクチャー(Source:REUTERS◇ ◇The Catholic faith (Catholics gather after a pilgrimage to a replica of the Cross of Medjugorje in Danli, about 96 km (57 miles) away from Tegucigalpa February 8, 2013. REUTERS/Jorge Cabrera) つまり、一家の主婦が家で食事を作ることが 必ずしも使命ではなくなり、また若者が高級 レストランで食事を摂ることが分不相応と思 われなくなった意識変革の結果として、飲食 店がかってない勢いで増殖したと考えられる のである。 すばらしい世の中になった。だがしかし、あ んがい古風な性格の、なおかつ無駄な勝負メ シを多年にわたって食ってきた私には、異論 を述べる資格があろうかと思う。 第一の点から物申せば、夜ごとうまい食事を 亭主に食わせるというのは、使命でも責任で もなく、日本女性の美徳とするところである。 わが国の食文化を支えてきたのは断じてレス トランの厨房ではなく、世界に類を見ない台 所の実力であった。 どんな高級レストランの味よりも、女房の手 料理のほうがずっとうまいと多くの亭主が信 じて続けてきたけっこうな国など、世界中の どこを探してもないのである。 つまり、夫婦や夫婦同然の恋人たちが美味を 求めて外食する合理的理由は、儀式性を除い てありえぬ。わが国の最もうるわしい伝統が、 今や壊れようとしているのではあるまいか。 一方、第二の点から物申すと、いい若い者が レストランで勝負メシという光景は、あんが い外国には珍しい。 私が若いころ浴びせかけられた「白い目」は いまだ健在で、分不相応な贅沢は恥ずかしい 行為だという認識が生きている。いい意味で 敷居が高いのである。こうした社会認識は世 界的な美徳であろう。 たしかにすばらし世の中になった。だが反面、 世界に冠たる伝統的美徳が失われ、同時に分 不相応の背徳が擡頭することを、思慮深いオ ヤジは危惧するのである。 料理とともに供される社会精神に気付かぬこ とを、飽食という。    (『MAQUIA』二〇〇六年3月号) 」》 ■本文の《わが国の食文化を支えてきたのは 断じてレストランの厨房ではなく、世界に類 を見ない台所の実力であった。》 話は少し固くなりますが、 台所の実力の低下は、なにも、夫婦間の問題 だけには、おさまりません。かっての家庭の 「茶の間」空間の消失を意味します。 その犠牲者は、子どもです。 ――― 親は子どもの最初の先生であり、心のよりど ころです。それゆえ、子どもたちの行く末を じっと見つめて、その能力の可能性と限界を 把握しつつ、日々、子どもに対しているのが 親だと思います。 以前は多くの家庭の「茶の間」で、家族そろ ってちゃぶ台を囲み、親子がその日の出来事 や子供の将来のことを楽しみながら、会話を 交わし、ゆっくり食事をしていたものですが、 生活様式の変化とともに、その光景もいつの 間にか消え、家族ばらばらで食事をする家庭 が多くなってしまいました。 こどもはこの茶の間での教育を通して、愛や 感謝、義務などを学ぶので、家庭は学校、企 業、国家など社会秩序のモデルともなるので す。 児童心理学者の山下俊郎さんは『児童の生活 とその指導』(東洋書簡、一九五一年)で、 次のように述べています。 「子どもを相手にして生活しているものは、 誰でも心から子どもの幸福を心から願ってい る。しかし、どんなに子どもを愛していても、 その愛の営みは、子どもに対する理解に裏付 けられたものでなければ、ほんとうの意味に おいて子どもを幸福にすることが出来ない。 子どもに対する理解、それは子どもを愛する ものが、まず持たねけれならない根本要件で あると思う」 子どもたちの話を聞いてやったり、一緒に考 えてやったり、勇気づけたり、しつけをした り、親と子が向き合うところが茶の間でもあ ったのです。 現在、残念ながら「家庭」そのものが崩壊し ているのではないでしょうか。 国や地方自治体が家庭のしつけを見直し、そ の具体策などを提案していますが、子どもの 教育は、本来、家庭が中心となって行われる もので、外部からとやかく言われるもではあ りません。親が真摯な愛をもって自ら取り組 んでいくべきだと思います。 なぜ、親子関係が希薄に、家庭の絆な弱くな ってしまっているのでしょうか。戦後の民法 改正で、家を中心とした家族制度がなくなり、 都市化の進展とともに核家族が一般的になっ たのが大きな要因としてあります。 さらに、個人主義的な傾向が進むことで、核 家族でさえも壊れかけ、家族がばらばらな家 庭が増えています。人々が互いの情的な絆を 失う「無縁社会」急速に広まっているのです。 「心の教育」は本来、祖父母や両親が子ども に伝え、孫に伝え、人から人へと受け継がれ ていくものです。 そうした継続した流れを担ってきたのを家族 であり、ですから家庭が社会の基本単位であ り、私たちの原点なのです。 ―――― 引用: 以前、取り上げたことがありますが、 『子どもは茶の間で育つ―教育再生は家庭から』 〈著者〉棚橋嘉勝元郁文館学園校長 の「はじめに」からの抜粋です。 子どもは茶の間で育つ―教育再生は家庭から (つづく) (1283dys-826ent) ☆浅田次郎著『ま、いっか。』(集英社文庫) ま、いっか。 (集英社文庫) ・文庫:272ページ ・出版社:集英社 (2012/11/15) ・さあ、身近の「ま、いっか」について、もう一度考え直して みようか、と。花と読書を愛した青春時代の思い出。巷に氾濫 する美人たちへの忠告。旅と買い物の、とっておきの楽しみ方。 老化について、女の誤解と男の本音。豊富な話題をもとに粋な オヤジ目線で語られるのは、江戸っ子らしいキレの良さと滋味 たっぷりの現代考察。著者の生き方の美学がきらりと光る、軽 妙洒脱なエッセイ集。 自分のために笑え。人のために笑え。いつも背筋を伸ばし、鉄 の心を忘れるな。粋に、一途に、ゆうるりと。浅田次郎が贈る、 軽妙洒脱な生き方指南。 ◎浅田次郎。1951年、東京都出身。自衛隊に入隊、除隊後はア パレル業界など様々な職につきながら投稿生活を続け、1991年、 『とられてたまるか!』で、デビュー。悪漢小説作品を経て、 1995年『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞、1997年『鉄 道員』で直木賞、2000年『壬生義士伝』で柴田錬三郎賞、2006 年『お腹召しませ』で中央公論文芸賞司馬遼太郎賞、2008年 『中原の虹』で吉川英治文学賞を、それぞれ受賞。時代小説の 他に『蒼穹の昴』、『中原の虹』などの清朝末期の歴史小説も 含め、映画化、テレビ化された作品も多い。 ・浅田次郎

浅田次郎著『ま、いっか。』(20)

◆◇◆立ち読み◆◇◆

鈴木智彦『ヤクザと原発 福島第一潜入記』文藝春秋刊(178)

・単行本: 256ページ ・出版社:文藝春秋 (2011/12/15) ・原発は儲かる。どでかいシノギだな。電力会社と交渉して、 ゼネコンと話付けて、地元の土建屋に仕事を振る。代紋なしで はとても捌ききれん。原発はタブーの宝庫。裏社会の俺たちに は、打ち出の小槌となるんだよ」。ヤクザが語る衝撃の事実。 日本最大のタブーがいま明かされる! 誰も書けなかった 命 懸けの衝撃ノンフィクション―。 ★ヤクザと原発 福島第一潜入記 ▼△第四章 ついに潜入! 1Fという修羅場(48)△▼

・のっぽのサリー・(その1)

支柱だけが残った3号機は、まるで原爆ドームのようだ
《「――バスは再び舗装された道へと戻り、丘の頂上から海に 向かう長い坂道をゆっくり下っていった。下半身を刺激し続け てきた揺れが収まり、声が漏れた。 「あっ、出た!」 「鈴木さん、駄目だって。少し我慢して。すぐだから。終わる から」 「いや、あれ、原子炉建屋!」 左手にテレビで何度も観た3号機と4号機があった。でかい。 想像以上だ。 支柱だけが残った3号機は、まるで原爆ドームのようで、事故 当時、東電社員が撤退したのも無理はないと思った。 世界遺産である原爆ドームは、核爆弾の恐怖を後世に伝えるも のだが、骨組みとなった3号機は、今も核爆弾以上を放射能を いつ外部に出すか分からない。 バスは4号機脇にあるプロセス主建屋の前に停まった。ここに 私の仕事場、東芝製の通称・サリー(Simlified Active Water Retrieve and Recovery System)がある。 シェルターの喫煙室東芝の社員が「魔法使いのサリー」と笑 っていたから、呼びやすいようにこじつけた近い略称に決めた のだろう。 サリーは本来、汚染水処理のバックアップのために作られた施 設だが、現在、稼働率が悪いアメリカ、フランス製の措置に代 わり、メインとして稼働している。 ――」》 ■自民党の正体、東電事故後初 原発輸出で日・サウジが合意 アブダビ時事によれば、日本政府は原発輸出に向けた協議を始 めることでサウジアラビア政府と合意し、2011年3月の東京電 力福島第1原発事故以降凍結していた原発輸出を再開する方向 に踏み出します。   首都リヤドを訪れた茂木敏充経済産業相が9日、原発を所管す る政府機関「アブドラ国王原子力再生可能エネルギー都市」 のファラジ副総裁と、協議開始で合意したといいます。 自民党は、公約に「原子力に依存しなくてもよい経済・社会構 造の確立」を掲げ、連立を組む公明党が「可能な限り速やかな 原発ゼロ」を掲げていました。 自民党原発政策は、そもそも、曖昧で、「10年以内に持続 可能な電源構成を確立」とか、「3年間、再生可能エネルギー の最大限の導入、省エネの最大限の推進」とかのフレーズが、 ゴマカシだったことが、明白になりました。 それにして、こんなに、早く、馬脚をあらわすとは、悲憤のみ。 茂木さん、核のゴミも、輸出しましょうか。名案でしょう。 ★政府、原発輸出への協議を始めることで  サウジアラビアと合意(13/02/11) (公開日: 2013/02/11) 【政府は、福島第1原発の事故以降、凍結していた原発輸出に  向けた協議を始めることで、-サウジアラビアと合意した。】 ◆◇◆立ち読みのはしご◆◇◆

高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書)☆(144)

・新書:224ページ ・出版社:集英社 (2012/1/17) ・本書のテーマは、犧牲のシステムとしての福島と沖縄である。 なぜ、福島と沖縄のか。それれは、一九四五年の敗戦以後、今 日までの日本を「敗戦日本」と呼ぶなら、これら二つの地名が、 戦後日本の国家体制に組み込まれた二つの犧牲のシステムを表 しているからだ。 沖縄が戦後日本の犧牲でったこと。それは、沖縄戦という史上 稀に見る過酷な戦闘の戦場にされた沖縄に米軍が居座り、サン フランシスコ講和条約第三条によって、沖縄がその米軍の施政 下に置かれ、一九七二年に日本に復帰して以後も、今なお全国 の米軍専用施設の約七四パーセントが沖縄に集中しているとい う、このことをさしている。 ★[犠牲のシステム 福島・沖縄 (集英社新書) ▼△第二部 沖縄 △▼ ・第四章「植民地としての沖縄〈5〉・

・沖縄は日本の捨て石にされた・(その2)

沖縄戦は、近代戦争市上、類を見ないほどの激戦
《「――以後、沖縄県は明治政府が推し進める同化政策の対象 とされ、沖縄の人々は帝国臣民となるように迫られていく。 学校教育では沖縄の言葉が禁止され「方言札」などを使いなが ら日本語が強制されていくことになるのをはじめとして、沖縄 の人々の民族性を消し去って、天皇制のもとに組み込んでいく 植民地教育が行われた。 それが後の台湾やあ朝鮮半島での植民地教育の先駆けになった とされている。 このような植民地化、同化政策の果てに、沖縄戦という悲劇が あった。アジア・太平洋戦争の最末期、日本の敗戦必至という 状況のなかで、一九四五年三月ニ六日の慶良間諸島への米軍上 陸をスタートとして、同年四月から六月まで約三ヶ月間、沖縄 は日米戦争の戦場となった。 米軍は、戦艦一五〇〇隻、上陸兵員一八万余という大部隊を投 入して本格的な上陸作戦を繰り広げた。 追いつめられた多くの島民は岸壁から身を投じ、あるいは身を 潜めていたガマ(壕)で「集団自決」するなど、近代戦争市上、 類を見ないほどの激戦と犠牲の末、日本軍第三二軍司令・牛島 満中将の自決によって組織的戦闘は終結した。 かろうじて生き残った島民は、米軍管理の「保護区」に集めら れ、完全に米軍の支配下に置かれた。 ―」》   ■ショキングな記事でしたの、原文のまま、ご紹介します。 ▼虚構の環:第1部・再処理撤退阻む壁/4   自民商工族がエネ庁に圧力  毎日新聞 2013年02月06日 東京朝刊から 抜粋 ――――  ◆虚構の環(サイクル)  ◇直接処分、試算膨らませろ 04年5月14日午前8時、東京・永田町の自民党本部。7階 の一室で「エネルギー関係幹部会」が開かれた。自民党政調に 置かれたエネルギー関係の委員会に所属する商工族ら衆参16 議員が出席。経済産業省資源エネルギー庁の日下一正長官、石 毛博行次長、寺坂信昭電力・ガス事業部長、業界団体の電気事 業連合会幹部が招かれた。 会議は非公開。議員らは取材に対し「覚えていない」などと答 えた。しかし経産省職員が作成し、関係部署に送信した議事メ モが残されていた。 3日前の同11日、日経新聞が1面トップで、国の原子力委員 会がコスト高から「核燃料サイクル政策を抜本的に見直す」と 報じていた。会議は報道を基にエネ庁を「つるし上げる」(出 席した経産省職員)構図だった。  A議員「日経新聞に訂正を打たせろ」  B議員「役所の課長レベルに(核燃サイクルに)反対の人が      いるので、こういう問題が出てくる」  日下長官「閣議後の大臣会見で(報道は)事実無根であると       発言していただいている」  B議員「大臣が発言しても十分ではない」  C議員「原子力は報道との戦い。まともな報道は少ない」 以下略。 ※記事全文をご覧になりたい方は下記へ: ★虚構の環:第1部・再処理撤退阻む壁/4 ―――― さてクイズといきましょうか。上記のA議員、B議員、C議員、 を下記のリストから選びなさい。 ★自民党商工族議員一覧 (週刊朝日、2002年3月1日号による) ・山崎拓 衆議院 福岡2区  ・堀内光雄  衆議院 山梨2区   ・額賀福志郎 衆議院 茨城2区  ・甘利明  衆議院 神奈川3区  ・町村信孝  衆議院 北海道5区 ・尾身幸次  衆議院 比例北関東6  ・細田博之  衆議院 島根1区 ・中山成彬  衆議院 宮崎1区 ・中川秀直  衆議院 広島4区 ・茂木敏充  衆議院 栃木5区 ・近藤剛 参院比例1 当時の自民党商工族の跋扈には、慄然とします。そして、現在 も、涼しい顔で、赤絨毯を踏み荒らしています。

◎◎◎万能川柳20周年記念ベスト版◎◎◎

仲畑貴志・編集  毎日新聞社刊 (2011/4/14) 万能川柳20周年記念ベスト版
・年ごとに禁煙の文字うまくなり  茨木 篠崎守
・家柄が良くて人柄悪い人     明石 竹風
・一度ではは納得いかぬ体重計   渋川 梅沢善ニ

☆★☆≫ 詩歌逍遙 ≪☆★☆

          堀 辰雄 
・詩集(抄)・
天使達が 僕の朝飯のために 自轉車で運んで來くる パンとスウプと 花を すると僕は その花を毟(ちぎ)つて ? スウプにふりかけ パンに付け さうしてささやかな食事をする 輕井澤にて 硝子の破てゐる窓 僕の蝕齒よ 夜になるとお前のなかに 洋燈がともり ぢつと聞いていると 皿やナイフの音がしてくる 僕の骨にとまつてゐる 小鳥よ 肺結核よ おまへが嘴で突つくから 僕の痰は血がまじる おまへが羽ばたくと 僕は咳をする おまへを眠らせるために 僕は吸入器をかけよう               (堀辰雄全集) ※Wikipedia:堀辰雄  

◆◇◆◇『侏儒の言葉西方の人』◆◇◆◇

芥川龍之介著 新潮文庫版》 侏儒の言葉・西方の人 (新潮文庫)
・日本人・
   我我日本人の二千年来君に忠に親に孝だったと思うのは猿田彦命 (さるたひこのみこと)もコスメ・ティックをつけていたと思うの と同じことである。 もうそろそろありのままの歴史的事実に徹して見ようではないか?    〈97〉

☆★☆言えそうで言えない英会話表現☆★☆

またいつか会いに来てください。
Come see me again some time.
<NHKラジオ 「英語5分間トレーニング」岩村圭南 - 講師> ※この番組の放送は4月1日で終了しています。 Wikipedia:岩村圭南

◎◆◎アートのたのしみ《フレデリック・レイトン》◎◆◎

湯浴みのヴィーナス(Venus Disrobing for the Bath)
〈1866-7年 個人蔵〉
フレデリック・レイトン=初代レイトン男爵
(Frederic Leighton,1st Baron Leighton,PRA) 〈1830年12月3日 - 1896年1月25日〉 イギリスの画家・彫刻家。作品は、歴史、聖書、古典的題材に 由來するものが多い。古典主義。レイトンはヨークシャーのス カボローで医者の息子として生まれる。家族はヨローッパ中を 旅行し、息子には数カ国に留学させ、その結果、レイトンは数 ヶ国語に堪能であった。 1840年、家族はローマに移住。父親はレイトンが医者になるこ とを望んでいたが、レイトンが画家になりたい意志を知って応 援する。当時、多くの美術家はロイヤル・アカデミーで学んだ が、レイトンは違ってブリュッセル、パリ、フランクフルトで 学んだ。 レイトンは、新古典主義の様式で知られていたが、中東への旅 は彼に多大な影響を与え、画風はオリエンタリズムへと変わっ ていった。初期の作品は歴史画、特に中世がテーマであった。 1855年、『チマブーエの「聖母子」』はローヤル・アカデミー に展示され、ヴィクトリア女王のお買い上げとなった。まだ、 25歳の若さであった。 レイトンはホランドパークの地域に邸宅を構え、ギリシャ風に 飾られ、「千夜一夜物語」の豪華さと華麗さに彩られていた。 1878年にローヤル・アカデミー会長に選ばれ、20年間勤めた。 芸術家では初めて、卿(サー)の称号を与えられた。しかし、 そのときはすでに重い扁桃炎に侵されていて、同月に逝去。
☆Frederic Leighton ・自画像 1880年
◆Lord Frederic Leighton 【アップロード日: 2010/12/15 Bilder - Lord Frederic Leighton Musik - Pianist: Chitose Okashiro, Komponist: Debussy Preludes from Book I】 ◆Lord Frederick Leighton - English painter and sculptor. 【アップロード日: 2012/01/29 Art History Videos: http://gekos.no/workshop/video.html Frederic Leighton, 1st Baron Leighton PRA (3 December 1830-- 25 January 1896), known as Sir Frederic Leighton, Bt, between 1886 and 1896, was an English painter and sculptor. His works depicted historical, biblical and classical subject matter. Leighton was bearer of the shortest-lived peerage in history; after only one day his hereditary peerage ended with his death.】

◇◆◇マイ視聴コーナー◇◆◇

Start Over by Beyonce
☆⇒⇒⇒Start Over by Brandon Powell | Song | Free Music, Listen Now on Myspace“Start Over”   ☆ビヨンセ・ジゼル・ノウルズ ビヨンセ・ジゼル・ノウルズ  (Beyonce Giselle Knowles)  〈1981年9月4日 〜 〉 ★Wikipedia:ビヨンセ