東日本大震災によせて(5)

イギリスの国際災害救助隊が何もしないまま帰国
せっかくの善意が、ひとつ無駄になりました 東日本大震災の被災地で救助にあたるために、 イギリスから来日した国際災害救助隊が、な んと、何もしないまま自国へ引き帰えざるを えない事態が起きてしました。 12名の救助隊員は日本側の要請に応えて出 動しましたが、入国に必要な書類をイギリス 大使館が用意できなかったため、被災地入り どころか空港からも出ることのないまま帰国 することになったというのです。 空港で2日間足止めを食ったあげく帰国でし た。なんとも、やりきれない話です。 英救助隊、何もせず帰国のワケ - ライブドアニュース いつの時代も、善意が必ずしも報われるとは 限らない憂世の現実があるようです。 大正12年9月1日、午前11時58分、大 激震が関東地方を襲いました。建物の倒壊、 直後に発生した大火災は東京・横浜を包囲し、 夥しい死者を出しました。 その時も、海外から多くのの援助が寄せらま した。海外援助のエピソードを、吉村昭著 『関東大震災』 (文春文庫)からご紹介しま す。 善意について、深く考えさせられます。
関東大震災アメリカは輸送船三十隻で救援物資を送りこむ
関東大震災は、世界各国にも伝えられ、中に は日本の大部分が壊滅したと新聞報道した国 もあった。 稀有な大災害に、各国の政府や国民の間に救 済の気運が自然に起った。 九月十日には、早くもアメリカ軍艦「ブラッ クホーク」とイギリス軍艦「ホーキンス」が 食料、、木材、燃料等を満載して品川沖に到 着し、その後、全世界から救援物資と金銭が 送られてきた。 殊にアメリカでは、震災後二週間もたたぬ間 に予定募金金額五百万ドルを超えた八百万ド ルが一般の人々から集められ、その他大量の 物資が三十隻にも及ぶ輸送船で日本に送りこ まれてきた。 ヨーロッパ各国の船も続々と横浜をはじめ各 港に入り、日本政府も喜んで、それを受け入 れた。
レーニン号」医師ら六十七名を乗せウラジオストック出港
しかし、例外が一隻あった。それは、ソ連汽 船「レーニン号」であった。 大震災の起ったこっと知ったソ連政府は、外 交委員長チチェリン名で日本政府に同情する 旨の電報を寄せてきた。 そして、ソ連邦人民委員会はこの件に関する 会議をひらき、 「一、日本労働者に実質上の援助をすること。  二、太平洋沿岸にある船舶に救援食料を積    込み日本に向かわせること」 と決議した。 この決定にもとづいて、中央執行委員会長カ リニンは、 「極東方面にある船舶は、ただちに食料を満  載し、日本に向かって主発せよ」 と命じた。 ウラジオストックには、義勇艦隊に属してい る「レーニン号」(約二千七百トン)が停泊 していた。 ソ連政府は、同船に約五十万ルーブルに相当 する食料、医薬品を積込み日本に送ることを 決め、ウラジオストック駐在の日本総領事館 にその旨を申し出た。 渡辺総領事代理は、ソ連の好意に謝意を表し た。そして、災害の中心地である横浜に入港 するよりは神戸に入港する方が安全である伝 え、入港後は日本官憲の指示にしたがように 求めた。 が、ソ連は日本とは国家体制の異なる社会主 義国であるので、渡辺は、「レーニン号」を 出発させるというソ連政府の申し出を受け入 れてよいか否かを、電報で、日本政府にただ した。 その間に、「レーニン号」には日本の事情に 精通しているパチスが救済隊全権、クズネツ ォフが補佐となり、医師六、補助医九、看護 婦五十二、計六十七名と共に便乗が決定した。 そして日本政府の回答が到着する前に、同船 は、九月八日午後二時十五分ウラジオストッ ク出港した。 渡辺総領事代理から「レーニン号」出港の報 告を受けた日本政府は、狼狽した。 外国からの援助はありがたいが、共産主義革 命に成功したソ連からの援助は迷惑だった。 共産主義思想は、天皇を中心に構成された日 本の国家体制を完全に否定する性格をもつ。 日本国内にも同調する者が徐々に増していて、 政府と軍部はその抑圧につとめていた。もし もソ連の救援を受け入れれば、それらの同調 者を活気づかせ、国家体制を否定する運動を 激化させる恐れがある。 ソ連は、救援することによって、日本を共産 主義国とする手ががかりを得ようとしていう のではないかと憶測した。 」 紆余曲折をへて、社会主義運動に極度な警戒 心をはらっている政府と軍部は、最終的に、 横浜港に停泊させられていた「レーニン号」 (日本海軍側の点検の結果、約十七万円に相 当する食料、建築材料等の救援物資を積載し ていた)の出港を促す処置をとったのです。 「 その日、午後六時三十分、戒厳司令部から派 遣された武田陸軍大佐が、「レーニン号」に おもむき、救援隊全権バチスに、退去命令を 与えた。 ソ連船の乗員たちは、憤激した。日本の大災 害を知って医師、看護婦を集め多量の救援物 資を積んでやってきたのに、警戒は厳重で、 しかも退去命令まで突きつけてきた。それは、 善意を全く踏みにじった行為に思えたのだ。 しかし、バチス全権は戒厳司令部の命令を受 け入れ、石炭補給の後、翌十四日午前十一時、 駆逐艦「波風」ほか一隻の監視を受けながら 横浜を出港した。 同船は、野島崎まで駆逐艦の追尾を受けた後、 津軽海峡をへてウラジオストックに引返して いった。 」 関東大震災 (文春文庫) (新装版 関東大震災 (文春文庫)
Requiem K.626 - 1.Introitus (chorus, soprano) - W. A. Mozart
怒りの日 (Dies iræ) 怒りの日、その日は ダビデとシビラの預言のとおり 世界が灰燼に帰す日です。 審判者があらわれて Dies iræ, dies illa solvet sæclum in favilla: teste David cum Sibylla Quantus tremor est futurus, quando judex est venturus, cuncta stricte discussurus. (M217-79) (M218-80休) 〜(M220-82休)